【エッセイ】「人生を変える」の違和感。【言葉偏愛】
長く書店で働いていたおかげで、ジャンル問わず本に触れられたのはとてもいい経験だったと思う。
本を売り買いするというのは、言葉を売り買いするということ。
漫画や絵本なんかはそこに当てはまらないと思われる方もいるかもしれないが、キャッチコピーやタイトルのつけかた、セリフ量による緩急のつけ具合など、いい刺激になるし学ぶことも多い。
あるいは、それはやっぱり僕が日常的にたくさん文を書く人間だからそう思うだけなのかもしれないけれど。
小説だけが、表現じゃない。
今でも各地の書店に足を運ぶたびに実感することのひとつだった。
◇
気まぐれに学参のコーナーなんかに立ち寄って、理科の教科書を開くと、太陽系の星が一列に並んでいる図が出てくる。
その周辺に、当たり前の顔をして散りばめられている命令形の文章を読みながら、星々の運動について想いをはせる。
長髪ひげ面の男が、中学の理科の教科書をめくっている姿は、ちょっと恐いかもしれないという客観的事実に気づき、そそくさと移動する。
ほんとはこのまま近くの絵本売り場もちょっと見たいのだけど、移動する。
今年もブックサンタは開催するのだろうか。
ふいにそんなことが頭をよぎった。
◇
ビジネス書売り場の前に立つ。
ここまで来ると、売り場の雰囲気がパリッとしたものになる。
たぶん気のもちようなのだろうけど、一冊一冊がどこか臨戦態勢で、スーツ姿の人々がぎっしり詰まった朝の通勤電車みたいな雰囲気がある。
さあ、今からやるぞ。みたいな雰囲気。
帯には大抵こんな売り文句がつきものだ。
『読まないと損!』
『〇〇万部突破!』
『あなたの人生を変える一冊!』
◇
ここで僕がこの言葉を違和感として取り上げるのは、決して資本主義に反抗するという意図があるためではない。
いや。
反抗心自体は常にどこかに持っているのだけど、それを主張するわけではない、と言ったほうがいいか。
『人生を変える』って、それは誇大広告と言わざるを得ませんよね。おたくの本を読んだくらいで変わる人生なら誰も苦労していませんよ。あのね。なんなんですか、あなたたちは。人の向上心につけこんで、自分たちのやり方やマインドを押しつける。次はなんですか。セミナーですか、LINE登録ですか。はいはい、お決まりですね。でも、その手には乗りませんよ。
……という刺々しい批判をくり出したいわけではなくて、ましてや
『変える』ってなんですか『変える』って。本が胸ぐらつかんで、ビンタでもしてくるって言うんですか。ハードカバーのビンタって攻撃力高くて目が覚めそうですよね。だからお値段も高いってわけですか。んなわけあるか。仮にその本読んで人生が変化したとしても、それはこっちの意思と行動の結果なのであって、本そのものが主体的に私の人生『変える』わけじゃないですよね。せいぜい『変えることをご提案させていただく』くらいにしといてもらいたいもんですね。
……という屁理屈をこねたいわけでもない。
むしろ逆です。
逆に『人生を変えない本』ってなんだろう、という素朴な疑問です。
◇
例えばここに、真っ白な本があるとします。
表紙の装丁、目次はおろか、ページ数すら振られていません。インクが染み込む前の、さみしげな余白だけがどこまでどこまでも続いています。
見た人に、およそ何ももたらさないであろう本。
人生を変えないであろう本。
◇
一人の若者がこの真っ白な背表紙を、街の小さな書店の隅で見かけます。
色とりどりの言葉の世界に、たったひとつ飾り気のない白。
若者が誘われるように手を伸ばしたら、本に触れる直前、同じように伸びてきた柔らかな指先に触れてしまいました。
「あ、すみません」
澄んだ声がして横に目をやると、女性。
彼女の肌は雪のように白く、それはどこか、今しがた目にした真っ白な本と重なるようでした。
「お好きなんですか。本」
静かな女性の声は、何かを期待するかのような響きをたたえていました。
「え、ええ」
若者はどきりとして、声が裏返りそうになるのを必死でこらえました。
「私もなんです。ページをめくっていると、不思議と落ち着いた気分になれて」
「わかる気がします」
「ふふ。好きすぎて、気づいたらこんなところで働いていました。どうぞ、ゆっくりしていってくださいね」
「あ、ありがとうございます」
若者はそれ以上なにも言えず、手近な一冊をとると、ひたすら文字に目を滑らせました。もちろん、内容は少しも入ってきません。
女性の白い肌のことや、触れた指先の柔らかさや、エプロンの胸元からのぞく、しなやかな鎖骨のことで頭がいっぱいでした。
気づくと、閉店時間が近づいていました。
若者はそれとなく先ほどの女性を探しましたが、今は店内に男の店員しかいません。
結局、何も買わずに帰路につきました。
一人暮らしの部屋にはいり、カバンを下ろすと、やけに重たい音が。
カバンの中には、あるはずのない白い表紙が見えました。
『おれ、知らずに持ってきちゃったのかな』
そんなはずはない、と思いつつも、女性のことを考えてぼうっとしていたことを思い出し、若者はすこし恥ずかしい気持ちになりました。
興味本位で本を開くと、そこには何も書かれていない、真っ白なページしかありません。
「なんだこれ。印刷ミスかな」
次の日、若者は気になりつつも、小さな書店に立ち寄って、黙ってその真っ白な本を元の棚に戻しました。
あの女性の姿はありませんでした。
◇
その後、なにごともなく若者の平凡な日々はすぎていきました。
あの女性のことも、真っ白な本のことも忘れてしまった、とある休日。
若者は久しぶりに、読書でもしようと思い、自室の本棚を眺めました。
そこに、白い背表紙。
え。と若者は思いました。
その表紙と同じように真っ白になった頭の中に、あの書店でのことが思い起こされます。
女性の顔は、もううまく思い出すことができませんでした。
ただひとつあるのは、彼女の白い肌の記憶だけ。
なんとなく嫌な予感がした若者は、やはり中身まで真っ白なその本を袋に入れ、燃えるゴミの日に出してしまいました。
次の日。
本棚には、またあの白い背表紙が挟まっていました。
◇
あんまりやるとホラーが苦手な方に怒られそうなので、これくらいにしておきます。
しかしこれで、いかに内容がない本といえど誰かの人生を変える可能性があるか、ということをわかっていただけたかと思います。
だからこそ、ぜんぜん知らないジャンルの本を『興味ないから』と切り捨てずに読んでみるのも、たまにはいいかもしれません。
僕は最近、ぜんぜん知らない西洋美術についての本を手にとってみました。
モネとかいう人の絵が好みかもしれません。