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僕には『推し』がいない。

昨日、廊下に寝そべって床の冷たさを享受していると、ふいに彼女と妹が話している場面が頭をよぎった。

「推しがいたほうが毎日楽しいよねえ」
「わかる。絶対そう」
「私も推し、つくろうかなって思ってて……」
「いいじゃん! 気になる人いるの?」

彼女たちの瞳は、日の出を迎えた海のように輝いていた。

僕にはその気持ちが分からなかった。残念ながら。

二人がはしゃいでいる横で、菩薩のごときほほえみをたずさえていることしかできなかった。

でもこうしてそのときの会話を思い出しているということは、僕にも彼女たちをどこか羨ましく思う気持ちがあるのだろう。その瞳の輝きに、僕にない熱を感じて。


僕には『推し』がいない。

一般的には、アイドルやアニメキャラ、Youtuber、Vtuberなんかがその対象になるのではないか、と思う。

ロックバンドやアーティストなんかも含まれるかもしれない。

彼女たちによると、恋愛対象と『推し』は分けられるべきものらしいので、カッコつけて「彼女が推しです」などとのたまおうものなら、僕はすべての『推し活中の人々』によって磔刑または、さらし首にされることうけあいだ。

実際、僕が彼女のアクスタや彼女の痛バを持ち、彼女の誕生日にそれらとともに一人で特製のホールケーキを囲んでいるところは、なかなか想像しにくい。


好きな作品はもちろんある。

でもその作品の出演者や監督、脚本家が『推し』になるか、といえば微妙なところである。

好きなのは、あくまでその作品なのであって。

したがって乙一さんをはじめ、僕の敬愛する作家の方々もなんだか違う。

だいたい「乙一が推しです!」などと言った日には、戻ってこられない領域に踏み込んでしまっているひと感がすごい。


しかし彼女と妹の口ぶりからすると、『推し』は『つくるもの』であるという共通認識があるようだった。

つまり『推し』というものは勝手に『できる』ものではなく、自分から『つくる』ものだということだ。

受動的ではなく能動的な。
消極的ではなく積極的に。

それを踏まえれば、今の僕の『推しがいない』という態度は『推しをつくる』努力を怠けているとも言えるのではないか。


そういえばエーリッヒ・フロムも似たようなことを言っていた。

曰く、愛は技術である、と。

つまりそれは『愛するということ』をサボっているということになるのでは?

愛とは、愛する者の生命と成長を積極的に気にかけることである。

エーリッヒ・フロム「愛するということ」より

だとしたら僕は、もっと『推し』という存在について、知らなくてはいけないのかもしれない。




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