新型コロナ危機をのりこえる力はどこにあるか――『「社会を変えよう」といわれたら』その後(木下ちがや)
木下ちがや(政治学者。TwitterID「こたつぬこ」@sangituyama)
危機がつくりだす共通感覚が他者への理解をすすめる
こんにちは。はじめまして。おひさしぶりです。
僕を知る人も知らない人も、このエッセイをいま覗いているみなさんと僕との出会い方はいろいろです。ただこの場でわたしたちをいま結んでいるのは、先行きの見えない容赦ない危機のさなかにいるという認識、です。
この危機はいつから始まったのでしょうか。2月から? 3月から? それとも先週から?
インターネットやテレビで日々洪水のように流される新型コロナウイルスをめぐる情報はがれきのように積み上がり、わたしたちがどの時点でどうみずからが危機のさなかにいると認識したのかを薄ぼんやりとした過去に追いやっています。
わたしたちはいつどこで危機を危機として自覚したのか。中国・武漢での新型コロナウイルスの感染爆発の報道を見てか、豪華客船内での感染の蔓延と政府の対応のまずさを見てか、著名な芸能人の方が亡くなられたのを知ってか、馴染みの居酒屋さんの苦境を知ってか、あるいは身近な人からついに感染者があらわれたことでか。
自覚したきっかけはそれぞれでも、危機は遠い世界からはじまり、しだいに日常の世界に押し寄せました。生命と暮らしの危機をわが身のものとして実感するきっかけは、おのおのの経験と人間関係、社会的立場によって大きく異なっています。同時に、気にかけていることもまたそれぞれです。子どもの安全や進学のこと、職場のこと、お店の経営のこと、介護施設にいる両親のこと、友達の看護師さんのこと、行き場のない人たちのこと。
みなさんも、社会的距離【ソーシャルディスタンス】をとらざるをえない状況下で、普段あまり連絡をとらない知り合いと、「どうしてるの?」と電話やメールでやりとりをする機会が増えているのではないでしょうか。それは、危機がつくりだす共通感覚が、他者の存在を理解しようとする想像力と動機を高めているからです。
わたしたちは刻一刻と刻まれていくこの多種多様な他者の経験を、電話やメールやSNSを介して寄せ集め、苦難への共感をつうじてみんなの意見、すなわち世論を創りあげようとしています。異なる境遇にある者同士が危機を介して経験を交流する時間は、まだこれから長く続くことでしょうし、それが何を生み出すかはもちろんまだわかりません。
危機【クライシス】は危険だが、機会でもあった
僕はちょうど1年前、大月書店から『「社会を変えよう」といわれたら』という本を出版しました。この本は、3・11以後の社会運動に参加した人たちの経験に根差しながら、いまの政治と歴史、そして未来について考えていくことを目指したものです。そしてこの本は、「危機【クライシス】」が、どのようにして社会を変え、人のあり方を変えていくのかを念頭において書きました。
「危機【クライシス】という言葉には、『危険』という意味と『機会』という、一見相反するかのような意味がともに込められています。つまり既存のシステムの崩壊がもたらす『危険』は同時に、新たな世界をつくりあげていく『機会』でもあるということです。わたしたちはまさにこの両義的な危機【クライシス】を、3・11以後体験してきたのです」(同書118~119頁)
大震災と原発事故という「複合危機」に直面するなかで、それまでの社会関係の壁を超えたあらたな出会いが次々と生まれ、新しい結集のシンボルとして大規模な社会運動が生まれました。また、いわゆる「野党共闘」という新しいスタイルの政治勢力もまたこの危機のなかから生まれました。民主党は新自由主義と決別し、衰退傾向にあった共産党は運動と共闘により刷新をとげ、数十年ぶりにリベラル左派が野党第一党に昇りつめました。保守と革新という敷居も下がり、これまであった組織間の軋轢も徐々に解きほぐれていきました。震災復興に取り組み、陣地を拡大しつつある東北地方の野党共闘はまさにそのシンボルといっていいでしょう。
2017年衆院選、秋葉原駅前で演説する枝野幸男
新型コロナ危機は、近代的な民主主義の手段をも封じた
ひるがえってみれば、わたしたちはこの十数年、第二次世界大戦以後の「平和と安定の時代」(正確にいえば1960年以後ですが)にはなかった規模の危機を、幾度も経験してきました。1920年代末の世界大恐慌以来といわれた2008年のリーマンショックは日本社会に「貧困」という言葉を復活させました。この危機は政権交代という大きな政治的変革をもたらしました。ただ、比較的安定した正社員の人たちと派遣労働者などの非正規雇用の人たちとのあいだ、また世代間によって危機の受け止め方には大きな差異がありました。
そして2011年の東日本大震災と原発事故もまた、被災地の人たちと、東京の都心部で原発に反対するデモに立ち上がった人たちとのあいだには、受け止め方の差異がありました。被災地に留まる人たちと避難した人たちとの違いは、その後の人生を大きく変えてしまうものでした。
いまのわたしたちもまた、おのおのの経験と人間関係、社会的立場によって危機の受け止め方は異なってはいます。しかしいまは、これまでの経済危機や震災に比べて、その違いが大したものに思えないほどの、はるかに深い共通の危機の奔流に巻き込まれています。
感染爆発の危機のさなかにいるわたしたちには、「被災地」に留まるのか、避難するのかという選択肢はありません。古代から感染爆発への対処の基本は「密集しないこと」でした。古代都市では感染爆発を回避するために国家を解散し、人々が散ることがたびたびあったようです。それに対してわたしたちが生きる近代社会は、都市への移動と密集により創りあげられてきました。20世紀前半の二度の大戦と大恐慌を経て、各国は人口を都市に密集させることで経済成長を実現してきました。
日本社会に生きるわたしたちの大半はこの高度経済成長以後に敷かれた軌道を歩み、そこで得られた経験と蓄積から将来を定め、社会生活を営んできました。「オリンピック」「万博」という国家的事業が、国民の目標として人々に受け入れられたのも、この近代にかたちづくられた国民的習慣が確固としてあればこそでした。
3・11の危機では、被災地の人たちだけが「留まるか、避難するか」という選択を迫られました。しかし感染爆発の危機の下では、すべての人がこの近代社会をかたちづくる装置――職場、学校、消費の場――から避難することを迫られています。さらに今回の危機は、近代のなかで育まれてきた民主主義的な連帯の習慣を封じ込めてしまいました。人と間近に言葉を交わすことは禁じられ、「年越し派遣村」や「国会前デモ」のような、集団的な救済と意思表明の手段が封じ込められてしまいました。
2015年8月、安保法制に反対する国会前デモ
「コロナ以後」の世界に投げかけられる不吉な予告
前例のない世界的な経済危機と民主主義の手段が凍結されている下で、「コロナ以後」の世界には不吉な予告が投げかけられています。国際政治学者のイアン・ブレマーは「大勢の人が職を失いますが、しわ寄せは特に労働者層や中間層に重くのしかかり、経済格差につながります。ポピュリズムやナショナリズムの伸長がさらに加速し、エスタブリッシュメント(既得権益層)への反発が燃え上がるでしょう」と予想しています(「朝日新聞」2020年4月27日付4面)。
21世紀に入ってから、新自由主義的グローバリズムが世界を覆い、経済格差の激化と排外主義的なナショナリズムの台頭はすでにはじまっていました。新型コロナ対策で国際協調主義を放棄し、扇動的な政治で対策を混乱させているトランプ政権の登場がまさにその兆候でした。ブレマーは、すでに生じていた政治的、社会的、経済的危機が、新型コロナ危機により一気に加速すると論じたいようです。
ブレマーが示唆するとおり、新型コロナ危機以前からすでに危機は生じており、新型コロナ危機はその危機をはっきりと目に見えるようにしました。ここ十数年の新自由主義改革により、保健所減らしなどの公衆衛生体制の疲弊が新型コロナ対策を阻んでいます。ほんの少しの感染者の増大が、あっという間に医療崩壊を招くほどに、医療体制は「改革」により疲弊しきっていました。非正規雇用、アルバイトが失われることで、大学生たちは退学の危機に追い込まれています。社会的隔離による家庭への封じ込めは、DVに苦しむ人たちを追い詰めています。アベノミクスのもと、日本経済は安定しているといわれ、女性の活躍が謳われ、就職率も高く、失業率も低いと喧伝されてきました。しかしそれが薄氷の上の安定だったことを、新型コロナ危機はさらけだしたのです。
危機を機会に転じる可能性はどこにあるか
「危機は危険であり、同時に機会である」。このテーゼは、新型コロナ危機にもあてはまるのでしょうか。ただただ危険だけが覆いかぶさり、機会は失われ、ブレマーの不吉な予言に誘われるままなのでしょうか。
危機を機会に転じることができる唯一の可能性は、わたしたちがいま社会的隔離のなかで育みつつある、「他者の存在を理解しようとする想像力と動機」です。そしてそれがいま、思わぬかたちで力を発揮し、少しずつ政治を動かしていることもまた事実です。
社会的隔離のさなかにあり、デモも集会も開けないわたしたちはいま無力でしょうか。
むしろ、8年にわたりつづいてきた安倍政権の下、閉塞感が強まっていたここ数年のほうが、無力感に苛まれていたのではないでしょうか。政権が国家的な腐敗を繰り返し、それにどんなに声をあげても変わらない状態、何度もデモに足を運んでも手ごたえがない状態、総理大臣や閣僚が国民をあざ笑うかのような態度をとっても内閣支持率が下がらない状態がここ数年続き、日本社会はまるで独裁国家のような様相に陥っていました。
ところが新型コロナ危機以後、こうした無力感は徐々に変化しつつあります。経済的困難の下で国民に一律10万円の支給をするという要求を、当初政府は一顧だにしませんでした。ところがSNSを中心にこれまでにない要求の声が渦巻き、総理大臣がいったん決めた予算を組み替えるという前代未聞のかたちで実現されました。新自由主義改革によって疲弊させられてきた「医療を守れ」という声は圧倒的です。小さな学生団体がはじめた「学費の減額を」という声は一挙に広がり、安倍総理は「前向きに検討する」といわざるを得なくなってきています。
「経産省内閣」と呼ばれる安倍政権は、新型コロナ危機においても経産省の要求を突き通し、非常事態宣言まで骨抜きにしようと試みました。しかし世論を背景に、新型コロナ対策専門家会議や医療界は抵抗し、生命優先の政策を貫こうとしています。朝日新聞の世論調査でも、公共サービスの規模が大きい「大きな政府」を求める声が、これまでになく膨らんでいます(「朝日新聞」2020年4月25日付1面 )。
「危機の下では、民衆はパニックを起こし、弱肉強食の世界が繰り広げられる」と映画などでは描かれがちです。しかし現実にはパニックを起こしたのは政府であり、布マスクの全戸配布や空気を読まない動画配信でひんしゅくを買い続けています。むしろ大多数の民衆はパニックに陥ることなく、公的なサービスを充実させ、社会的に弱い人たちをも守る政策を支持しています。
このように、社会的隔離の下で、この数か月間わたしたちが育んできた「他者の存在を理解しようとする想像力と動機」が、社会をよりよい方向に変えようとする力を生み出しています。人と間近に言葉を交わすことを禁じられ、デモも集会もできなくても、わたしたちはこうして、新型コロナ以後の世界に向けて民主主義的な機会を開こうとしているのです。
わたしたちにいまできること
今回の危機が収束するめどはまったく立っていません。収束後の世界を見通す知識も経験も、誰ももちあわせていません。こうした不安定かつ不確定な状況下においては、煽動的なフェイクニュースや未来を断言するデマゴーグが蔓延し、不信感が世の中を覆うといわれています。わかりやすい敵を設定し、それに襲いかかることでひとときのカタルシスを得ようとする衝動は強まるでしょう。SNSはこうした不信感を増大させ、危機を脱するにふさわしい民主主義的世論の育成を阻むかもしれません。こうした状況下で、わたしたちは何を信じたらいいのか。
信じられるものは、機会を切り開こうとする実践を見出し、出会おうとする営為のなかにあります。
僕のまわりだけでも、地域を駆けめぐってなんとか声を拾い上げようとする市議会議員、地道に情報を集めて政府の政策を変えようと努力している国会議員、自分の伝手を使って防護服やマスクの製造ができないかを模索している経営者、医療従事者の要求と声を発信している医療系労働組合の人たち、フェイクニュースにまどわされずいま必要な事実を取材し報じようと奮闘している新聞記者、学費減免を求めて発信をつづける学生たちがいます。かれらはみずから苦境にありつつも、他者への想像力を失うことなく、公共的な意見を高く掲げようとしています。
新型コロナ危機は近代社会のあり方に挑戦をつきつけると同時に、近代社会が育んできた他者に働きかけ、社会を変えようとする啓蒙的精神をも活性化させているのです。
わたしたちにいまできることは、こうした努力を励まし、エールを送り、できることならそれにつながり、加わり、社会的隔離が明けた世界に向けて備えることです。この危機のさなかにおいて、この民主主義的な力がどれだけ蓄積されるかが、これからの政治や社会のあり方を決めていくかもしれないからです。
(きのした ちがや)1971年徳島県生まれ。政治学者。一橋大学社会学研究科博士課程単位取得退学。博士(社会学)。現在、工学院大学非常勤講師、明治学院大学国際平和研究所研究員。著書に『ポピュリズムと「民意」の政治学』(大月書店)、『国家と治安』(青土社)、『原発を止める人々』(小熊英二との共編著、文藝春秋)、訳書にD・グレーバー『デモクラシー・プロジェクト』(航思社)、N・チョムスキー『チョムスキーの「アナキズム論」』(明石書店)、J・ヤング『後期近代の眩暈』(青土社)、D・ハーヴェイ『新自由主義』(作品社)ほか。