先生が先生になれない世の中で(37) ~ずっとわからなかったこと~
僕は教員時代、K先生に褒められたことがほとんどない。
その数少ない栄光の中に、初めて担任を任されたクラスの卒業式がある。教員1年目の僕は、2年生だったその学年の副担任だった。でも、年度途中に病休となった学年主任の先生の代わりに、急遽担任を受け持つことになったのだ。
当時は「団塊の世代」の一斉退職前で、教員の採用がほとんどなかった時代だ。僕は、アメリカの大学院を修了後、2年半かけて通信教育で教員免許を取得し、28歳で晴れて教員になった。そんな僕でも、教職員の中では久々の「若手」。生徒も、自分たちと年齢の近い教員の加入を歓迎しているようだった。副担任としてエネルギーを持て余していた自分は、右も左もわからずに「担任交代」というチャレンジを引き受けた。
僕が勤務していた千葉市では、中1から中2に上がる時はクラス替えがあるが、中2、中3は受験のことを考慮してか、クラス替えをしないのが普通だった。しかし、その学年は2年生の頃から問題が多く、3年進級にあたってクラス替えを要した学年だった。その際、特にやんちゃな生徒が何人かいたのだが、その目玉的な生徒たちを教員2年目の自分がまとめて受け持つことになった。なにも自分で志願したのではない。当時生徒指導主任だったK先生の采配だった。のちに詳しく説明するが、自分の甘さと力不足を思い知らされる一年となった。うつ病になってもおかしくない時期もあったように思う。行き場がなく、職員室のロッカールームで一人うなだれることもあった。
それでも下手クソなりに一生懸命やり、文字通りなんとか卒業式に「漕ぎ着けた」わけだが、式を目の前にして、僕にはきわめて初歩的な心配があった。
うちのクラスは、卒業式に36人全員が揃うのだろうか……。
しかし、ふたを開けてみれば、我が3年B組としては出来過ぎの卒業式だった。髪を金髪にしてさんざん学校をさぼっていたTも、その日だけは黒髪で式に出席し、数週間にわたる卒業式の練習ではさんざんまわりに迷惑をかけていた生徒も立派な態度を貫き、それまでずっと不登校だった子も当日になって登校し、全員が晴れて卒業することができたのだ。
K先生が褒めてくれたのはその時だった。
「あれはえらかった。」
当時の生徒に対して申し訳ないという気持ちしかない僕には、K先生の言葉の意味がわからなかった。その後も、教員としての経験を重ね、「今だったらわかるだろ」と何度かK先生に言われたのだが、ずっとわからなかった。
もちろん、全員がそろって立派に卒業できたのはうれしかったし、最後には、「このクラスでよかった」という声が聞こえてきたのもうれしかった。ただ、僕の気持ちは晴れなかった。正直、最後だけよくても、という気持ちも強かった。
6年の歳月を経て――
その子たちが、今年21歳になった。
Tに会いたい、と僕は思った。会ってあの時のことを訊いてみよう。そんな想いで僕は受話器を手にした……。
「俺の奥さんも連れてっていいかな。」
電話越しのTがそう言った。「奥さん」という口調に初々しさが見られた。大バカだったあいつが嫁さん同伴で来るのかと思うと、妙に感慨深いものがあった。もちろんだと答え、Tにとって翌日仕事がない土曜の夜に会うことになった。
夜8時、JR稲毛駅の改札。一目でわかった。背が伸び、少し大人になったTと力強い握手をした。とてもいい笑顔をしていた。後ろには高校生くらいに見える元気のよさそうな女の子。一緒にいる二人からは仲のよさが伝わってきた。歩きながら、お腹に赤ちゃんがいると教えてくれた。Tはうれしそうだった。
行ったのは、JR稲毛駅近くにある「くうひな」という、僕が惚れ込み通い続けた居酒屋の雇われ店長が、独立して初めて開いた店だった。3年ぶりくらいだったが、しっかり顔も名前も覚えてくれていた。席に着くと自分の名前が筆で書かれた来店歓迎のカード。やっぱり心の通ずる店はいい。
「プロだな。人だよな。」
そんなところから会話は始まった。
6年の歳月はTを変えていた。
今は塗装会社に勤め、最近になって現場の「頭」を任されたそうだ。積み荷の確認も、部下に渡すお金の手配も、他の業者との段取りもすべて自分でやらなければいけないこと。わからないことだらけで、最初はうつ病になりそうだったこと。初めて自分の甘さに気づかされたこと。今は19歳の新妻と安アパートで暮らしていること。2月は仕事がなくて生活が大変だったこと。そして、仕事で文字を書く機会が増え、漢字が書けなくて恥ずかしいから本気で習いたいということ。
そう笑顔で話すTは、社会人の顔をしていた。
(つづく)
*この記事は、月刊『クレスコ』2024年10月号からの転載記事です。