たかがパンツ。
お気に入りのパンツってありますか。
私は、専門店やあらゆる素材や上下お揃いなどの諸々を経て、ここ数年、ユニクロのシームレスなやつに落ち着いている。デイリー用として、女子の愛用者も多いことだろうと思う。
(※2024年現在、またパンツ迷子になっている)
とにかく、アウターにラインが響かないところが非常にいい。
はき心地、すなわちパンツ本来の実力や素材ももちろん大切だけど、最優先事項は「見えないこと」だと思っている私にとって、非常に頼れる相棒だ。
上に着るワンピースやボトムスにその存在を知らしめようとするパンツなど、言語道断である。
パンツたるもの、忍びの如くあるべし。
ラインが出ないことを優先すると、Tバックも候補に入ってくる。
数年前に、すべての女子はTバックをはくべき! といったWEB記事が少し流行った。
「一般的にハードルが高いと思われているけど、“今私はTバックをはいている……! ”と思うと、おしりにキュッと緊張感が生まれて、所作も美しくなり、結果おしりもきれいになるよ」というような主張だったと記憶している。
20代の私は、その主張に見事に感化され、Tバックを数枚手持ちに加えた。
ただ、実際にはいてみると、いちいち直さないとポジションが納得いかないことも多いし、洗濯して乾しているときの所在のなさというか、心許なさというか、とにかく面積の少なさにどうもしっくりこなくて、そっと押入れの奥にしまい、それっきりになっていた。
そして数年後、時は2021年3月。
私は10年以上放置していた背中の良性腫瘍(Bカップぐらいある、そこそこでかいやつ)をとることを決めていた。
全身麻酔の手術になるし、コロナ的観点で入院は前泊する必要があったから、二泊三日だか三泊四日だか、それぐらいの入院である。
腫瘍をとった場所に血がたまるので、その具合によってはプラス1日入院ということで、日数分の下着が必要だった。
ユニクロシームレスの在庫は4枚。
前日はいているものは洗濯のため持参できないから、できればあと1枚、入院バッグに入れておきたい。
私はあのTバックたちを思い出した。
予備用も含むから、買い足すほどではない。しまっていた彼らで、なんとかやり過ごせばいい。
久々に対面したTバックは、相変わらず頼りない感じで、なぜ捨てずにとっているかも分からないような有様だった。
やっぱり私にとってのスタメンはユニクロシームレス、Tバックは2軍、いや、声がかかることのないベンチである。
それでも、今回は試合に連れて行くことに決め、バッグに突っ込んだ。
==
手術にむけて、病院の売店で布だか紙だかの、パカっとひらく使い捨てパンツを買うよう指示される。
私は考えた。
術後はなるべくストレスがない状態が望ましいだろうから、スタメンたちはそのときのためにとっておきたい。
(彼らはラインが響かない点に置いてだけでなく、締め付けのなさでも優秀なのだ。)
ベンチは、前泊の日、あえて手術前に先にはいてさっさと消化してしまおう!
実に名案である。
当日朝、看護師さんが迎えに来るので、その前にはき替えておこうと思い、私はベンチに早めに声をかけて、試合を待った。
そして迎えた当日。
前の晩、買ったままの手術用パンツには手をつけずに、ベットの上に置いておくよう指示が出ていた。
一応はき方の説明があるのだろう、私は素直に指示に従い、手術用パンツにはき替えるタイミング、すなわちベンチを脱ぎ捨てるタイミングをうかがっていた。
スタメンに比べて、やはり圧倒的にはき心地が悪いベンチ。少しでも早く脱ぎ捨てたかった。
術後を優先したとはいえ、ベンチでやりすごしているこの瞬間が、ひどく人生の無駄な時間に思えてならなかった。
「おはようございます、体温はかりますね〜」
明るく可愛い看護師さんが、朝から笑顔で話しかけてくれる。入院時はこの笑顔がとにかく嬉しい。
必要なあれこれを済ませ、私ははき替えの指示を待った。
ところが、手術用パンツはそのまま手に持ち、手術室に向かうようにと告げられる。
あれ?
そうなの?
手術前に、準備のお部屋みたいなのがあって、そこではき替える感じ?
じゃあ、パンツはベッドで脱いで、手術用を装着するだけにしておいた方が良いのでは……?
一言確認すれば良いだけなのだけれど、看護師さんもバタバタしているし、なんとなく聞きづらい。
「持ったまま行け」と指示されているのだし、流れに身を任せた方が良さそうな雰囲気だった。
とりあえず指示に従い、私は手術室に移動した。
いよいよ迎える試合本番。
腫瘍は良性で、取っても取らなくてもいいコブみたいなものだから、変なプレッシャーは全然ない。むしろ、初めての全身麻酔に、私はちょっとだけワクワクしていた。
パンツのはき替えのタイミングへの心配もあるが、未知の体験に対する興奮の方がずっと強かったし、背中にブヨブヨと邪魔な存在感を放っているこのコブとおさらばできることも嬉しかった。
看護師さんに連れられ、どんどん病院の奥に進んで行く。
オペ室までつくと、すでに執刀をしてくれる先生をはじめ、複数の女性がいかにもオペという格好で忙しそうに動き回っていた。
今回担当してくれる先生は、身長こそ150cm台で可愛らしい感じなのだけど、とにかく美人だった。
検診も、大学病院あるあるで、予約時間に対して毎回数時間遅れるので、ストレスといえばストレスだったけど、この美人に会えると思うとなんだか良い時間に思えるぐらいだった。
今日も彼女は美しい。
オペ室に着くとすぐに、手術台にあがるよう指示される。
いよいよだ。
私は素直に従う。
手足にいろいろチューブ的なものが繋がれていく。
そのタイミングで、私は気がついた。
パンツは自分ではき替えるのではない。
このまま彼女らに脱がされ、はき替えさせられるのだ。
……まずい。
術衣の下は、言わずもがな、あのTバックである。
わざわざ手術本番を、Tバックで迎えるやつがあるだろうか?
もちろんTバックを日常使いしている人もいるだろうし、あのWEB記事のように、あえてはくことで士気を高める的な使い方をする人もいるかもしれない。
ただ、私はこのヨレヨレの、ベンチにすら本来入れたくなかった、ほぼ天国に召されている状態のこのTバックが人の目に晒されることを全く想定していなかったのだ。
しかも、相手はあの美人である。
無理すぎる!
無理オブ無理!!!!
麻酔や手術への高揚とは別の緊張が、全身に走る。
まずい、まずいまずいまずい。
あぁどうして、朝看護師さんに一言「ここではき替えて行ってもいいですか?」と言わなかったのか!
なぜ!!言われるがままにここまで来てしまったのか!
一生のお願いだから今朝まで時間を戻してほしい!なんでもする!神様仏様、どうかご慈悲を……!!!
周りの様子を伺ってみるものの、今から「あの、ちょっと、さすがにパンツは自分ではき替えたいんですけど」なんて絶対に言えない状況である。
焦るな。
落ち着け。
考えろ。
そうだ、あえて自分から笑いに変えてしまうのはどうだろう?
最初に小さく傷ついて、その後の負傷を最大限軽くする作戦である。
「いや〜まさか替えていただくなんて思わなくって、Tバックはいちゃってました!普段はユニクロの!シームレスなんですけどね!はは!もうこれ、全然普段はいてなくて!予備として持ってきたやつなんですよ、いつもはいている方はまだ控えてるんですよ!」
やや痛いがやむを得ない。
緊急事態なのだから、多少の生傷は我慢だ。
しかし、言われる側の視点に立って考えてみると、どうでもよすぎて涙が出そうな主張だ。
そもそも毎日のように手術の現場にいる人たちが、いちいち患者Aのパンツに対して何か感情を抱くだろうか?
世の中、Tバックならずとも、さまざまなパンツが存在しているのだし、気にしているは自分だけで、先方は別に何も思わないのでは?
そこであえて自らパンツの話題を振ることで、むしろ「あ〜ほんとだ、こいつ手術にTバックはいてきてるwww」ってなっちゃうんじゃないの?!?!
そもそも雑談をするような雰囲気は皆無である。ここにいる誰しもが、これからの手術に向けて、手際良く仕事をしている。
医療現場で、まさにこれから手術というタイミングで、パンツを気にしてる小せぇやつと思われるのも恥ずかしい。
勝負に出るべきか否か……。
動悸が止まらない。
まずいまずいまずい時間がない。
パンツよ、忍べ!今こそ!
忍びの本領を発揮するのだ!!
看護師さんが麻酔の説明をしている。
パンツ替える前に麻酔するの? あぁ、腕に! 注射針が! 麻酔が!!
あ!
あ…あぁぁぁぁぁぁぁあああああ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!!
==
目がさめると、私は病室のベッドに横たわっていた。
何時間寝ていたのか分からない。手足にはまだいろんなチューブが繋がれていて、麻酔が抜けていないからか、うまく体を動かすこともできない。
そうか、手術は終わったんだ。
パンツは……
どうなったのだろう……。
麻酔を入れて、ひんやりした感覚がしたと思った瞬間、意識を失ってしまったようだ。
脱がされた記憶も、もちろんない。
しかし、すべてが終わった今、パンツのことなどどうでも良かった。
枕元に、充電をしたままの携帯がある。
唯一動かせる片手でなんとか携帯を持つと、夫からLINEがきていた。
目覚めの連絡をすると、どうでもよくなっていたはずのパンツの辱めがにわかに蘇ってくる。
夫にしてみれば、そんなこと言われてもオブザイヤーを受賞できそうなほどに、どうでもいい情報である。
だた、私にとって、今回の手術の感想=パンツ。
それ以上でも、それ以下でもなかった。
夫に送る事で、すべてを終わりにしたかった。もう、忘れたかった。
一方的にパンツ事情だけを送り、私はまた目を閉じた。
少し体がだるい。吐き気もする。
あとどれくらいで、体が自由に動くようになるんだろうか。
早く子どもたちに会いたい。
当時2人だった子どもたちと、こんなに何日も会わないのは初めてなのだ。彼らは元気に過ごせているだろうか?寂しい思いはしてないか?
明日から在宅で仕事しようと思ってたけど、一日ぐらいは有給を取った方が良さそうだな……。
思考が徐々に、「日常」に覆われていく。
「大塚さん、入りますね〜」
いつもの看護師さんが、笑顔でカーテンを開ける。
なされるがままに、体温や心拍数を提供し、少し会話をして去っていく。
「大塚さん、あけて大丈夫?」
少しすると、また別の看護師さんの声がした。
体調を確認してくれたり、食事を運んでくれたり、高頻度で看護師さんたちはやって来た。
1人だと塞ぎこんでしまいそうなこのカーテン内の狭いスペースでは、彼女たちの笑顔が本当に支えになる。
複数人いる看護師さんたちは、みんなとても優しかった。
私は彼女と少し話をして、今後の見通しなどを確認した。
「あ、それと、これここに置いておくね〜」
去り際に彼女がそう声をかけた。
これ……?
視線を「これ」がファサッと置かれたベッドの上のテーブルまで動かすと、透明のビニール袋に入った何かと目があう。
視認性ばっちりな透明の袋に無造作に入れられた「これ」は、あのTバックだった。
パンツを……
透明の袋に……!?
絶妙なのは、置き場所だ。
ベッド上のテーブルだなんて、食事が運ばれたり、体温計を置かれたり、何かと用途が多くて看護師さんとのコミュニケーションNO.1の場所である。
だからこそ置かれたのだと理解できるが、せめて、このベッドの横の、荷物の上に!!
見えないところに置いてくれぇぇぇ!
食事外のタイミングのため、テーブルはやや足元の方にある。
ベッドを起こしたとて、あれこれ手足に繋がれている今の状況だと届かないだろう。
私はTバックの厚顔無恥さが憎かった。
生々しさをはらみ、こちらを嘲笑うかのように見下ろしている、このTバックが憎い。
忘れたはずのお前は、手術中に私を辱めるだけでは足りず、まだ苦しめるのか。
それが、たんすの肥やしで本領を発揮できない苦渋の数年を経た、お前の真の姿なのか……。
あるいは、Tバックに非はないのかもしれない。
勝手にもてはやし、必要がなくなったからと放置していた私が、Tバッグをひねくれ鬼に変えてしまったのかもしれない。
あぁ、これが、あのスタメンパンツだったなら——。
どこにどう置かれようが、誰の目に晒されようが、他の衣類と同様の感情しか生まれなかっただろう。
そういうニュートラルさが、ユニクロのシームレスパンツには宿っている。
早く……早くはき替えたい。
私の心の友、スタメンパンツよ。
私はすべてを諦めた。
その後Tバックはテーブルの上に居座り、複数人の目に晒されたが、無の境地でただその状況を受け入れた。
==
実にパンツに振り回された数日間を終え、私は退院した。
術後の経過も順調だった。
もう何も怖くない。
この先の人生は、希望しかない。
そんな気分だった。
家に着くと、私は可燃ゴミに、あのTバックを葬った。
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