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「夫婦」って、白髪かもしれない。

偽装結婚をしていたことがある。
20代前半の頃の話だ。

いい夫婦の日(11/22)が近づくと、いつもあの「完璧でぎこちない日々」を思い出す。実態がない、ニセモノ夫婦。本物の結婚もしたけれど、夫婦の実態っていうのは、とても不思議だ。

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偽装結婚の相手は、田辺という大学時代の友人だった。卒業間近、ひょんなことから、田辺を含む3人で一緒に暮らす話が持ち上がった。


「住むの、この家にしようぜ!」

ある日、田辺から興奮した声呼び出され、私たちはチェーン店のカフェで賃貸情報のWEBページをのぞきこんだ。

丸の内線の東高円寺駅から、徒歩14分。広くて古い、5SLDKの一軒家。見た目はギョッとするけれど、中もお風呂もリフォームされていて快適そうだ。家賃は……12万円?!

「よくない?」
「いい! めちゃくちゃいい! 絶対ここがいい!」


私たちは、運命の物件を目の前にして、一人あたり4万円で手に入れられる都会の悠々自適な暮らしを思い描いてはうっとりした。



しかし、一つだけ問題がある。我々は、男女混合の3人組。一つ屋根の下で男女が云々という野暮な話ではない。賃貸契約の問題である。

当時、男女が一緒に住む場合、結婚をしているか婚約中でないと審査に通らないという噂がまことしやかに囁かれていた。家賃滞納のリスクが、ただのカップルより低いからだろう。


さぁ、どうする——



「とりあえず俺たち婚約中ってことにしとく? 証明とかいらないし」

その一言で、私は田辺の婚約者になった。
初デートのときめきも、お泊まりのドキドキも、嫉妬の涙も、二人で乗り越えた壁も何一つないまま、私たちは婚約した。


もう一人については、満場一致で「いとこ」になった。夫側 or 妻側どちらの「いとこ」とすべきか議論が白熱し、夫側がよかろうという結論に着地した。

そこは普通に「友人」でいいんじゃないの? と、今なら思う。
真面目さがちょっと不器用な形で機能してしまう3人組だった。まぁ、大学生の社会人偏差値なんて、こんなもんである。


とにかく私たちは「婚約者」と「夫のいとこ」という謎の3人組として、新生活に臨むことになったのだ。



偽装婚約者としての最初の仕事は、言わずもがな賃貸契約である。私と田辺は「婚約中カップル」という設定を確認しあい、不動産屋に乗り込んだ。「いとこ」はお留守番。

いつ不動産屋のおっちゃんから「で、おたくらは、ええと、ご夫婦なのかな?」と聞かれるのか、私は始終ソワソワしていた。しかし、待てど暮らせど聞かれない。結局、ただの男女3人組のまま、私たちは夢の一軒家生活を手に入れたのだった。


上から「いとこ」、田辺、「婚約者」。
昭和みが強いがバリバリ2000年代です。



婚約者の設定が発揮されたのは、暮らし始めてからだった。

家がある辺りは、東京の23区とはいえ古くからの住宅街だ。ご近所付き合いもゼロではなく、回覧板文化も残っている。

近隣住人の中には、若い3人組に興味を示す人もいた。友人です、と言えばいいものの、説明がちょっとめんどうだ。

「新婚さんなの?」と問われれば恥ずかしそうにほほえみ、「田辺さんの奥さん」と呼ばれれば返事をする。新婚とか婚約者の雰囲気をどう醸し出せばいいかわからなかったけれど、きっとホンモノもこんなふうにほほえむだろう。私は完璧に「奥さん」を演じ続けた。



「田辺さんの奥さん」の振る舞いをするたびに、本物の奥さんって、どういう感じなんだろう? と想像することが増えた。

愛するって、どういうことだろう。
一生愛を誓うって、添い遂げるって、そんなの無理じゃない……?

いつか自分も結婚して、奥さんになるのだろうか。結婚したら、世界が変わるのだろうか。それとも、自分が変わるのだろうか。なにが、どんな風に?


しかし、どれだけ想像してみても、具体的なイメージがちっとも湧いてこない。いくつか自分の核を作るような恋愛もしてきたけれど、その先に結婚があるとは思えなかった。

世の中は夫婦に溢れていて、サンプルはいくらでもある。母だって、回覧板を送り届けるお隣さんだって、既婚者であればみんな「奥さん」なのだ。
しかし、逆にリアルすぎてどうにもしっくりこない。

街ゆく夫婦サンプルを見回しても、鏡よ鏡と問うてみても、誰も「これがあなたの未来の奥さん像ですよ」と示してくれるものはなかった。

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本物の「奥さん」になったのは、ままごとにすらならない偽装結婚を解消した5年後のことだ。もちろん相手は、田辺ではない。

顔見知り程度だった今の夫と数年ぶりに再会したその日に「私、多分この人と結婚する」という予感がした。結婚の概念なんて一つもわからないくせに、はっきりとそう思った。そして、2年後にその通りになって、そのまま夫婦を10年続けている。

自分が変わってしまうかといえば、そんなことはまったくなかった。世界も、自分も、変わらなかった。


「まぁ自分の幸せはそれぞれ自分で。ただ一緒にいる、そういう感じでいきましょう」

プロポーズされたときは、「そんな無責任な言い方ある?」と笑ったけれど、私たちはまさにそういう感じだ。

誰かに自分の幸せをたくすことも、「幸せにします」と言われることにもしっくりきていなかった私には、ある意味理想的なプロポーズだったのかもしれない。

自分を幸せにするのは自分。彼は彼のまま、私は私のままゆっくり影響しあって、影響されている自分が嫌じゃないから、今もそれを続けているだけ。世に溢れている夫婦についての格言は、当てはまったものもあるし、そうでないものもある。愛については、いまだによくわからない。


偽装時代の自分に「リアルな夫婦はこんな感じだよ」と伝えたとしても、きっと信じなかっただろう。未来の自分なんて、いつだってまったくリアルじゃない。でも、ちゃんと地続きなのだと、振り返って初めて気がつく。




朝、夫と並んで洗面所に立つ。髪を整えている夫を横目で見ると、髪に白く光る筋を見つける。10年前にはなかったものだ。

「ねぇ、ちょっと! 白髪あるんだけど」

もう〜おじさんじゃん、と笑いながらも、その一本の白髪から目が離せない。ただ過ぎて忘れていった日々のすべてがこの筋にあるような、不思議な感覚だった。こんなに近くで夫のことを見るのは、久しぶりだ。

老けたなぁ、この人。
若者だったけど、おじさんになったんだな。


夫婦としての10年は、若者の髪を白く染めるほどの時間だったのだ。演じる必要のない関係性の中で、夫の変化を一番近くで私が見てきた。きっと夫にも、彼しか見ていない私の変化があるはずだ。

老いの象徴であるその白い筋が、なんだかひどく愛おしかった。私たちが共有してきた時間そのものなのだ。この白髪そのものが、私の「夫婦」であるような気がした。


いつか夫は、おじいさんになるのだろうか。その頃は、私もおばあさんだ。この数本の白い筋が束になって、もっと面積が増えていくのにどのくらいの年数がかかるのかわからないけれど、私はきっとその過程を見続けるのだろう。

彼は彼のままで、私は私のままで。
少しずつ影響しあって、その変化も愛おしみながら、「夫婦」を刻んでいくのだろう。


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