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田代島でぐちゃぐちゃに泣いた夜

猫たちの楽園で、私は途方に暮れていた。
もっと言えば、飢えていた。

食料も、今夜泊まる場所も、なにもない。雨の中、ひとりぼっちで、味わいたくもない絶望を感じていた。

だけどこれは、私の人生を照らしてくれた、旅の希望の話なのである。


いつかしてみたいと思っていた東北巡りの一人旅を、いつかではなく今しよう! と、ふと思い立ったのは、大学卒業直後のことだ。


心が、限界だった。

夢や希望を爆発させた自己と現実の落とし所を見つけられずに、東京の片隅で沈んだまま、身動きが取れなくなっていた。

同居していた友人に「お前さ、なんで今東京にいんの?」と聞かれて、何も答えられないことが恥ずかしかった。


そんな時に、ふと思ったのだ。

五能線に乗って日本海の絶景を見てみたい。
白神山地で自然の雄大さに圧倒されたい。
宮沢賢治に会いに行きたいし、遠野で昔話の世界に浸りたい。
八幡平でトレッキングをして、鳴子温泉でこけしを見ながら疲れを癒して、山形にいる友人にも会いに行こう。

そうと決めたら、すでに気持ちが癒され始めた。いくなら今だ。今しかない。

全部、全部、詰めこんだ。一週間以上かけて、行きたいところに全部行くことを決めた。



まずは東京から仙台に行って……と、地図を片手にルートを検討していると、仙台の西側にある、小さな島が目に入る。

「田代島だ!」

行ってみたいと、ぼんやり思っていた島だった。少しだけ足を伸ばして、フェリーで田代島にも立ち寄れるかも?


田代島は、宮城県の離島で、猫好きにはあまりにも有名すぎる猫の聖地である。猫を守り神として大切にしてきた島では、島民よりも猫の数が多い。

島のあちこちにいる、猫のかたまり


我が家は圧倒的に猫好きの家系だ。
神にまつることはしないまでも、代々猫沼ストーリーには事欠かない。

祖父は猫を可愛いがりすぎて家族と折り合いが悪くなり、猫を優先して家出をした。父は愛猫の写真をせっせとSNSにアップしていたし、私はたくさんの猫に囲まれたい一心で、同じく猫の島として有名なマルタ島まで飛んだ。


小さな島だから、数時間の滞在でも十分だったけれど、どうせなら田代島に一泊して、ゆっくり島猫を堪能したい。

軽く調べてみると、田代島にはいくつか民宿があるようだった。しかし、宿選びの判断材料となる情報が足りず、どうにも決めきれない。ピックアップだけして、当日島を歩きながら、その場で宿を選ぶことにした。

海外での一人旅でも、同じように宿情報だけを事前にさらって、当日宿を決めることがよくある。

宿を目的とした旅ならまだしも、初めての土地に降り立ってみると、事前の想定が覆されたり、決めていた優先順位が入れ替わるのが常。

良くも悪くも、ハプニングが前提である旅において、予約は安心材料であると同時に、時に足枷あしかせにもなるのだ。

情報を事前にさらって選択肢を広げておきつつ、常に心がおもむく方へ。それが、旅の満足度を圧倒的に押し上げる自分なりのコツであり、こだわりの一つだ。



ところが、この田代島に関しては、そのフランクさが仇となった。

島を訪れたのは、三連休の初日。
何件か民宿を訪ねてみたものの、どこもいっぱいで、泊まれる宿が見つからないのだ。今更フェリーで引き返そうにも、もう島発の最終時間は過ぎている。


数軒連続で断られ、まいったな……と思いながらも、まだどこか楽観的に考えていた。

バックパックには、いざという時のための寝袋を忍ばせている。旅の初日から使うことになるとは思わなかったけれど、寝床は自分で作り出せるのだ。幸い、季節は秋だった。暑さに苦しむことも、凍える心配もない。


絶望が訪れたのは、この後だった。

とにかく食事だけでもと、売店や食事処を探し始めて、愕然とした。
この島には、スーパーやコンビニが一軒もない。飲食店も数えるほどで、閉店時間も早い。

要は、現時点での食事の調達手段がないのである。自動販売機ですら、稀有な存在だった。

途端に、お腹の辺りが「グゥ」と言いはじめる。昼ごはんも控えめだったから、明日までの絶食はかなり苦しい。


せめて食事だけでも何とか対応してもらえないか……と、民宿への交渉を、宿泊ではなく食事に切り替えて、再チャレンジすることにした。

「ごめんね、今日はいっぱいだから、食事だけってのも難しいんだわ」

申し訳なさそうに断られ続ける。食事だけでも、ダメか……。


最悪なことに、島には雨が降り始めていた。
雨宿りをしながら、荷物を広げてあちこち電話をかけていると、どこからともなく猫がやってきて、荷物の上で勝手に寝始める。

有線のヘッドフォンに時代を感じる


港で漁師たちから魚をもらっていた猫たちのことを思い出す。この島で、今一番お腹を空かせているのは、きっと私だった。鳴けど求めど、エサにありつけない。

自分の甘さが、憎かった。下調べが甘いから、こんなことになるのだ。断られるたびに、自分の存在を否定されるような気持ちになった。

やっぱり、うまくいかない。やっぱり、ダメなんだ。私はダメなやつなんだ。私がダメなんだ。

何しに、ここに来たんだろう。もう帰りたい。でもどこへ?
東京にも、ここにも、きっと明日から足を運ぶ東北各地にも、自分の居場所なんてどこにもない——。



……大丈夫、大丈夫。死ぬわけじゃない。

民宿をあとに、とぼとぼと雨宿りができる場所を目指して山の方へ向かいながら、必死で自分を奮い立たせていると、突然「キィン」と耳をつくような音が鳴り響き、島内放送が流れ始めた。


「えー、連絡です。

今、民宿〇〇荘を訪ねた女の子は、至急〇〇荘に戻ってください。

繰り返します。民宿〇〇荘を訪ねた女の子、今すぐ宿に戻ってください」


聞き覚えのある宿名が連呼されていた。
それはまさに、先ほど食事を断られ、私を絶望と孤独の底へ突き落とした民宿だった。


え……?
女の子って、私のこと?

島に響き渡る公共の放送で、私が呼ばれている……?


ショッピングセンターで迷子のお知らせをされているような、恥ずかしくてむず痒い感じがした。

少し切羽詰まった放送だった。財布でも落としてきただろうか。
それとも、もしかして急に空きが出た?

期待したい。
でも、期待して落胆したら、もうこれ以上、落ちる場所がない。


必死に期待値調整をしながら小走りで宿に戻ると、宿主は「おぉ、あんた、よかった、ちゃんと来たな!」と笑って出迎えてくれた。

「今夜はうちに泊まりな。雨降ってきちゃったからさ、さすがに気になってね。部屋はないんだけど、なんとかするから、うちに来なさい」


宿主が話し終える前に、すでに私の顔はぐちゃぐちゃに濡れていたと思う。

野宿でいいと腹を括っていたものの、度重なる宿泊拒否と初めての土地でひとりぼっちという不安、空腹感で、すっかり消耗していたのだ。

ずっと、ずっと、消耗していた。「ここにいていい」という一言がどれほど人を安心させるのか、私はこの時初めて知った。温かい砂に体を埋めているような心地よさだった。


「ありがとうございます……!」


ぐちゃぐちゃになりながら、何度もお礼を言った。宿主は笑ったまま、何も言わなかった。


通していただいた部屋は、まさに宿の私的空間だった。

天井には洗濯バサミがたくさんぶら下がっていて、まだ取り囲まれていないタオルやシャツが干してある。床にも洗濯物が溢れていて、かろうじてスペースと呼べる程度の場所に無理やり布団が敷かれていた。

「事前に来るって言ってくれれば片付けたのに!」と母に怒られながら泊まる実家のようで、思わず笑った。

本当に、自分たちの生活空間を空けてくださったのだ。ありがたい。

雨で少し冷え始めていた体をお風呂で温めたあと、宿泊者と一緒に夕食をいただいた。

大きなお盆に、小鉢がたくさん並んでいる。どれもしみじみおいしい。

胸もお腹もいっぱいで、苦しかった。幸せな苦しみだった。
欠けてグラグラしていた空間に、少しだけ温度感のある何かが挟まったようなこそばゆさを感じながら、洗濯物の山をかき分けて敷かれた布団の上で猫のように丸まって、眠りについた。


翌朝以降のことは、覚えていない。
きっと、朝ごはんも食べさせてもらい、正規の価格をお支払いして島を出たのだと思うけれど、記憶からすっぽりと抜け落ちてしまっている。

もう、15年ほども前の話である。
旅を記録したものは何もなく、どこでなにをしたのかも、断片的な記憶しかない。

猫の写真だけは奇跡的に残っていたけれど、元データには辿り着けず、どれも壊滅的な画質だ。


この旅の最終地となった山形の友人宅で「痩せたね!」と言われたことは覚えている。実際は、最後に友人に会ってから、3kgほど肥えていた。
きっと、旅を通して、体重じゃない何かが落ちて、軽やかな表情になっていたのだろう。


捨て猫のようだった私を丸ごと受け入れてくれた民宿の名前も、宿主の顔も、今はもう思い出すことができない。

それでも、体は強烈に覚えているのだ。
あの時、絶望で消えてしまいそうな私を救った、島内放送の驚きを。「今夜はここにいなさい」と言われた瞬間の、全身が崩れるような安堵を。旅で知った、人の温かさを。

私に刻まれた田代島の記憶は、島についてから出会った猫たちの奔放さと、島内放送の衝撃、そして特別な部屋で過ごした温かい夜、それがすべてだし、それで十分だ。


自分探し旅ブームを揶揄するような傾向が、特に近年あるように思う。確かに、「自分」は旅先で「探す」ものではない。

でも、旅には、思いがけない出会いで心を揺さぶる力がある。心が動くと、結果的に自分の新しい一面や、変わらない一面を深く知るきっかけになる。


人生には、旅が必要だ。
あの日の田代島を、私は決して忘れない。


画質……(泣)






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