カウンター越しのあなたへ
狭い雑居ビルの5階にある小さなバーの扉を、静かな決意と共に、ゆっくり開ける。
お酒が好きなわけでも、強いわけでもない。ただ、会話が苦手な自分から抜け出したくて、バーテンダーのアルバイトを始めることにした。
カウンター越しの狭い空間なら、会話から逃げられない。会話も業務の一部だ。そんな環境に自分を追い込むことで、少しでも会話のスキルを上げたかった。もう、18年も前の話だ。
「おーい、聞いてる?」
「会話が宇宙人みたいだよねw」
大学生の頃、知人によくそんなことを言われた。
世間話ならスムーズなのに、思考を要する会話になると言葉に詰まる。脳内と口に出す言葉のスピードが噛み合わない。脳内では必死に考えているのに、外から見れば「ただ黙っている人」で終わってしまう。
話の展開から連想したことを口に出してしまう悪い癖もあった。要は、会話下手くそマンなのだ。
「頭の回転が悪いんだ……」と落ち込む日々だった。自分はなんて察しが悪く、思考も浅いのだろう——
文章なら、いくらでも深く思考させてくれる。わからないことも、書いているうちに理解が深まっていく。 だから私は、いつも文章に逃げていた。
キーボードに指を乗せると、思考よりも先に指が動く。文章を書くときだけは、指先に脳が宿っているような感覚だった。
そうは言っても、現実世界で生きるには、会話は避けられない。
初対面の人との会話を数こなせば、臨機応変に話せるようになるのではないか? というのが、私の仮説だった。
こちらから話しかけ、会話の引き出しを増やし、対応力を身につける。そのための武者修行の場として、バーを選んだのだ。
🍸
店には、さまざまなタイプの人が訪れた。
作曲家、パチスロで生計を立てている人、銀行マン、歴史学の教授。どんな仕事をしているのか分からない人も多かったけれど、カウンターの中から見える大人の世界は興味深かった。
お客はみんな常連ばかりで温かく、会話も弾む。
しかし、リードしてくれるのは常にお客サイドもしくは同僚だった。数週間経っても私は会話下手くそマンのままだった。空は飛べないし、顔が濡れていないはずなのに力が出ない。
まずは、話しかけるきっかけを作らなければ。
そう、会話はきっかけが9割である(多分)。
バーなのだから、会話の入り口は提供するお酒の話がよかろうと、勉強がてら手に取ったウイスキーの本に、私はすぐに魅了された。
香りの表現ひとつをとっても「スモーキー」「フローラル」といったお馴染みのものから「黒炭」「ゴム臭」まで幅広い。まるで詩だ。文学だ。
おいしく飲んでもらいたくて、技術向上にも努めた。ビールの泡の比率や強度、炭酸が抜けない丁寧なステア(バースプーンで手早くかき混ぜる技法)。心意気だけは、プロのつもりでお酒を作った。
次第に仲のいい常連もでき、働くのは楽しかったけれど、会話はどうにも上達しない。別の興味と知識、経験ばかりが積まれていく。
これといった成果が出せないまま、引っ越しと共にアルバイトをやめた。それ以来、店には一度も訪れていない。
🥃
「書く」ことで世界を体感し、思考し、自分を保っていた。会話が下手であればあるほど、文章でマイナス分の補填をしようと努力した。
でも、仕事というパーツが人生を占めるようになってからバランスが崩れ、「書く」ことに罪悪感が出始める。
誰のためになるでもなく、誰かに認められるでもなく、お金になるわけでもないのに、書いていていいんだっけ……?
きっと、書くこと以外は別人格なのだ。なんらかのシナプスがたるんでいるのだ。社会人としてのさまざまな機能が、ぶよぶよしている。だからいつまで経っても、飛べないんだよ。
やつらを丸ごとライザップにブチ込みたかった。思考力と瞬発力を発揮するための筋肉をどうにかしなければ、社会で生きていくのはしんどい。
パンのマンたちは、選ばれし生粋のヒーローだけど、私は違う。努力しなければダメだ。ヒーロー級じゃなくていい。ぶよぶよを「普通」になる程度には引き締めたい。
だから、プライベートで書くことをやめ、ぶよぶよたち必死で鍛えた。
書くことを手放した数年間、くじらが海面に浮かび上がって呼吸するように、残しておきたいことを時折文章にしてみたけれど、夢中で書いていた頃のようには書けなくなっていることに気づいて、絶望した。
「好き」も「得意」も、積み重ねるから強化されるのだ。鍛えなきゃいけないのは、書くことも同じだった。サボれば衰える。そんなことさ、学校で習ったっけ?
めちゃくちゃ大切なことなのに、私は知らなかった。パンのマンたちも、教えてくれなかった。愛と勇気が大切ってことだけじゃなくて、その辺りについて少しだけでも触れておいてほしかったよ。
もう、指先に脳みそはいない。錆びついた指が紡ぐ文章は、いつの間にか思考を深める相棒ではなくなっていた。
書く時間を投げ出した私は、もはや自分が何を考えているのか、自分が一体誰なのかも分からなくなってしまった。深く、深く、暗い海の底に、ただ沈み続けた。
🍺
そうして、10年以上を溶かしてきたのだ。このまま海に沈み続けて人生終わるのかと思うと、泣けてきた。自分に自信がなさすぎて、友達と会うのも気が引ける。
ぶよぶよのシナプスのままでいいから、ライザップをサボってもいいから、自分の人生を愛したい。陸が恋しい。
やっぱり、書こう。
自分らしさの残骸を握りしめてみると、やっぱり書くことへの執着が、希望が、いつまでも残ってしまう。結局、人の本質には、抗えない。
自信なんて、これっぽっちもない。なんて下手なんだろうと、毎日思う。
でも、楽しい。楽しくて、楽しくて、仕方ない。
書けば、日常がより鮮やかに色づき、愛は深まり、生きている実感が湧く。
だから、夢中で書いている。
オリジナルのカクテルを、書いている。
樽で長く熟成させ、切り取るタイミングで味わいが変化するウイスキーを、書いている。
サッとつまめるキスチョコを、減った小腹に差し出すピザを、お酒に添えるチェイサーを、書いている。
楽しい気持ちを共有したくて、泡を潰さないように差し出す。ステアをするときは、炭酸が抜けないように、細心の注意を払う。
会話は苦手なままだけど、書くことと向き合って、少しでもおいしく飲んでもらいたい。そんな気持ちで書き始めてから、書くことがもっと好きになった。
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藤原華さん主催の『なぜ、私は書くのか』というnoteコンテストで、優秀賞を頂いた。
受賞の知らせを聞いたとき、あぁ、コンテストの受賞者って、本当に存在するんだ。都市伝説じゃなかったんだな、と思った。本当に不思議なコンテストで、生きる意味を考え直すようなお題に向き合うのがとにかく楽しかった。
依頼された受賞コメントは、いくつかの理由で書き上げられなかったから、どうせなら! と、この記事を書いている。
書くことを好んでいる人は、きっとみんな、書かずにはいられない人だ。
書くことへの想いが溢れて、苦しくて、でも楽しくて、どうしようもない。そんな気持ちが伝わってくる。
書く理由なんて、本当はなんだっていい。
多面性のある人間に、本能のように寄り添っているものなのだから、その時々で役割も変わる。自分のために書くこともあれば、誰かに届けたくて書くこともある。すっぴんジャージ姿の文章もあれば、正装した文章だってある。
文章は、清濁を呑み込み、あらゆる感情を受け止めてくれる、大きな海のような存在だ。沈んでもなお、温かく陸に押し上げてくれた、母なる海。
誰のためになるでもなく、誰かに認められるでもなく、お金になるわけでもないとしても、もう文章は手放さない。
泡は潰さず、炭酸の刺激を存分に楽しめるように。店のドアを開け、カウンターに座ってくれた人が楽しめるよう、書き続けていくだけだ。
コンテスト参加作品は、こちらです。
書くことへの覚悟が変わったきっかけの一つ、卒業式の答辞にまつわる中学時代のお話。
主催の藤原華さん、中間選考を担当いただいたジャスミンさん、改めて本当にありがとうございました。ほんと、いろんな意味で、すんごいコンテストだったな……。
そんでさ、今日、創作大賞2024 中間選考結果出ましたよね。
通ってた。
エッセイ部門で、これが通ってた。
タイトル長……!
応募した作品の中でも、ビュー数スキ数ともに明らかに低くて、あまり好まれない作品だなぁと思ってたものなので、本当に驚いた。
もうさ、誰になにがどう響くかって、本当にわからない。だから、思いっきり好きに書くしかないんだなぁと、改めて、そう感じます。
好きなことを好きなように、日々コツコツ。
思わず笑っちゃう文章を、たくさん書き続けたいなぁ……