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聴け、奥歯の叫びを。

歯医者で「あーん」と口を開ける瞬間は、誰もが無防備になる。

極悪人だろうが、鬼上司だろうが、歯科医に「お口、開けてくださいね」と言われれば、みんな言われるがまま素直に従う。なんだかちょっと、かわいい。


私は、歯医者で否応なしに「あーん」を強要される時間が好きだ。

そう、歯医者は、無防備の贅沢を味わう場所。
生きるために常時装備している緊張や重荷を手放し、ただ「あーん」としているだけで、口の中のマイナスをゼロにしてくれるのだ。こんなに素敵な場所が街中にあるだなんて、素晴らしい世の中である。



そんな価値観をさらに発展させてくれたのは、とある歯科医の院長だった。

当時、仕事に追われ、生きる屍のようになっていた私は、しばらく歯医者に通えていなかった。管理能力に長けた社会人は、ノートラブルだろうと、定期的にクリーニングに通う。

できる社会人の称号が欲しかった私にとって、手軽に入手できるのが、3ヶ月に1度の歯医者通いだったというのに。


日常からはるか遠いところに存在していた歯医者だったが、しびれを切らしたのか、向こうから私の日常に飛び込んできた。引っ越したマンションの一階に、歯医者のテナントが入っていたのである。

自宅から数秒なので、とにかく通院のハードルが低い。うっかり作りすぎたカレーを持ってピンポンしてしまいそうだし、ゴミ出しやエレベータですれ違っているうちに、恋に発展しかねない距離である。

さっそく自宅から数秒かけて受付に出向き、数日後にクリーニングの予約を入れた。





「ん〜……奥歯のデコボコが完全に消えちゃってるねぇ」


いつものように、無防備にあんぐりと口を開けているところに、院長の印象的な一言が飛び込んできた。


奥歯の……なに?
デコボコが、行方不明?

そんなことって、ある……?


そもそも奥歯のことだなんて、人生で一度も考えたことがなかった。

……いや、中学生の頃、ギャルたちの間でハイビスカス柄が流行って、なんだか奥歯に似てるなぁと思ったことがあったかもしれない。

そうか、似てる理由そのものだったあのデコボコが、消えたのか。

いったい、どこへ……?



「どれどれ……」と舌で奥歯をまさぐると、多少の凹凸はあるものの、たしかにツルンとしている。その舌の感触に、私は実家にあったヤマザキ春のパン祭りでもらえる白い陶器皿(縁取りがナミナミしたデザイン)をぼんやり思い浮かべた。


「奥歯を噛み締めるクセ、ない?」
「朝起きて、あごがが疲れてる感じ、ない?」

探偵のように、私の私生活を次々と暴いていく院長。名推理がぶちかまされるたびに、私は「なぜそのことを……!」と驚きながら猛烈に頷いていた。

丸裸だ。口の中だけじゃない。人生丸ごと、言い当てられている気がする。


冷や汗をかきはじめていた私の無防備な心身を、彼はそっと抱き上げた。

「ずっと頑張ってきたんだね。きっと、あなたが頑張ったり、苦しかったりするたびに、この奥歯が一緒に受け止めてきていたんだよ」


彼には聴こえたのだ。奥歯の叫びが。

思いがけない抱擁に、無防備に開いたまま乾いていたはずのあらゆる粘膜が、じゅわっと熱を帯びる。


歯医者はセラピーじゃない。
歯科医はコーチングのプロじゃない。

それなのに院長は、私の人生を優しく包み、ほぐしてくれるセラピストであり、コーチだった。

歯を見ただけで伝わることって、こんなにあるのか……!

涙が出ないように力を入れた私の顔は、いつもの無防備さを堪能する表情とは、明らかに違っていただろう。

===


その日以来、私は奥歯に想いを馳せるようになった。

デコボコが消えるほど、自分は追い込まれていたのだろうか。なにが、そうさせていたのだろう。必死で日々をこなしていたけれど、なんのため? 消耗した代償って、奥歯に押し付けてきた責任って、なに?

数ヶ月前に、仕事をしすぎて倒れたばかりだった。
体からはアラートが出続けていたのに、耳を傾けられなかった。

それまでの人生で、体のSOSを受け入れる方法を学んでこなかったから、シンプルにどうしたらいいのかわからなかったのだ。頑張り続けた先には、ポジティブなことしかないと信じていた。

きっとその時も、奥歯は耐えてくれたのだろう。


ごめん……。

ごめんね、奥歯。
ごめんね、私の体。


大地を削り、地形を変えるには、何千年、何万年という悠久の時間が必要だ。それなのに、私の奥歯に潜む大自然は、30数年という超絶猛スピードで形を変え、ハイビスカスから春のパン祭り皿へと変化してしまった。

自分自身、見て見ぬフリをしてきた苦しみ、言えなかった本音。そういうものが全部、奥歯に刻まれている気がした。

聴かなくちゃ。奥歯の声を。




妊娠、出産、育児で人生が目まぐるしくなると、自分のことを後回しにするのが当たり前になり、また私は人生の舵取りを忘れかけていた。歯医者もまた遠のいてしまった。

もはや、カレーも冷めるし、偶然のすれ違いで恋が生まれるような距離に、歯医者はない。

それでも、奥歯を舌でなぞると、あのときのショックや覚悟がよみがえる。


このままじゃダメだと思った。 

今だ。
「いつか」と先延ばしにしていた未来を、今呼び寄せよう。


あの院長と出会ってからの数年間、いや、無意識の中では数十年間、やりたいことリストに残り続けた「矯正」に、初めてチェックをつける。


歯を整えるのは、美容や健康のためだと思っていた。でもきっと、それだけじゃない。自分を労い、人生を愛し、明るい未来への舵取りをする一歩にもなるはずだ。

もっと軽やかで自分らしく生きる人生に、いい歯が寄り添ってくれるのだ。

デコボコが消えるほど頑張ってきた過去も、これから整っていくであろう未来も、すべてを奥歯は刻み続ける。

生きていれば、ぎゅっと奥歯を噛みしめたくなることはたくさんあるだろう。だからこそ、整えるのだ。一生、この歯と生きていくために。


===

歯医者では相変わらず「あーん」と無防備に過ごしている。でも、今はそれだけじゃない。同時に未来を噛みしめるための時間なのだと強く思う。私が自分で選び、舵取りをする未来である。

今こそ聴くのだ。奥歯の叫びを。


「お口、開けてくださいね」

歯医者の台に横たわり、歯科医に言われるがまま「あーん」と口を開けながら、私の気持ちはぐっと上向きに弾むのだった。





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