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「本当の天才は東京藝大にいる」←これに対する違和感

やや刺激的なタイトルにしたが、東京藝大を批判したいわけではない。東京藝大に対して、よく言われがちな「本当の天才が集まる場所」という表現に対する違和感である。正確に言うと、東京藝大に天才がいないのでは?という違和感ではなく、こういうことを気軽に言う人に対する違和感である。

往々にして、このような主張をする人は東大を引き合いに出し、「東大ではなく藝大のほうが本当の天才」という意図を含んでいる。東大にも藝大にも天才はいるだろうし、比べることはできないはずなのに。

本記事では、この主張に対する違和感を言語化したい。

自分が経験した領域でしか、凄さは分からないはず

人間、自分が経験した領域でしか、凄さは分からないはずである。例を2つ挙げよう。

例えば、東大に合格することの凄さを、本当の意味で分かっているのは、受験勉強を本気で取り組んだ人だけだ。具体的には、東京一工や東大落ち早慶の人だろうか。それ以外の、ほとんどの日本人にとっては、東大、早慶、MARCHは一括りに高学歴である。東大が一番ということは知識としては理解してても、大学ごとの細かなレベルの違いはわからないし、東大に合格する凄さに対する実感もない。

別の例で言うと私は、大谷翔平の野球選手としての凄さはいまいち分からない。これは私が野球をやったことがないからである。だからこそ、1000億円といった自分が理解できる金銭的尺度でしか、凄いと思えない。私にとっては、大谷翔平より東大理3に合格した人の方が凄いとすら感じるが、これはむしろ自然な感想ではないだろうか。

あなたは芸術の何を知っているのか

以上を踏まえて言いたいのが、「藝大のほうが本当の天才」という人は、芸術やアートの何を知っているのだろうか、という点である。

恥ずかしい話であるが、私は芸術が全く分からない。玉手箱とかの適性検査で「芸術家を尊敬している」「音楽や絵に関心がある」といった設問では、「そう思わない」を力強く回答しているくらいだ。だからこそ、東京藝大のことを天才だとも天才じゃないとも思わない。自分が知らない領域のことは、全く評価できないのである。

おそらくほとんどの人間にとっても、私と状態だろう。ほとんどの人にとって芸術は、東大受験と同じくらい縁がないはずである。でも、まだ東大の方が、理解できるのではないだろうか。

例えば、大半の人が曲がりなりにも高校受験を経験しているし、過半数が大学受験を経験しているのである。また小学校の同級生とか親戚とか、知り合いの知り合いレベルでも東大生の方が存在する可能性は高い。このように、本来アートよりも、受験勉強やその延長にある東大のほうが身近だし、その凄さも分かりやすいはずである。

それなのに、「東大ではなく藝大のほうが本当の天才」と言ってしまうのはなぜか?

「分かっている自分」を演出したいだけでは?

私は、こう言った発言には2つの理由があると考えている。

まず1つは、「東大に対する憂さ晴らし」である。「東大生は実務で使えない」「世界大学ランキングでは東大は下位」といった主張と同質のものだ。東大を貶めたいが、自分の実力ではどうにもできないため、藝大という「虎の威」を借りているのである。

もう1つは、藝大を上げることで「自分もアートを分かっていますよ」感を演出したいのではないだろうか。私は藝大を凄さを認められるくらい深みや教養のある人間なんです、といった意図を感じる。

まとめ

テレビやネットで東京藝大が持ち上げられるたびに、私はモヤモヤを感じてきた。これは学歴エリートの東大生として対抗意識を燃やしていることもあったのだろうが、今回この違和感をうまく言語化できたと思う。結局どちらが凄いとかではないし、比べることはできないはずだ。

こういうことを言う人も、本当に東京藝大がすごいと分かっているというよりは、この主張を通して、上述したような自己アピールをしたいのだろう。こういった「本心ではないことを主張することで、自分の価値を高めようとする」事例は、ほかにも無限にありそうである。


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