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蟻とガウディのアパート 第12話(第一章)

「シャボン玉」

 父という車には、アクセルしか搭載されていなかった。 しかたなしに、母が身体まるごとブレーキ車になった。 
 ブレーキ車が到着するのは、おおかたアクセル車が大破したあとだった。 母は、黙々と残骸を片付けた。 私は母の傍らに座って、その横顔を盗み見た。 母は、胸の中からシャボン玉のように吹き出してくる何かを奥歯で噛み潰し、飲み込んではお腹に沈めているように見えた。
まれに、アクセル車の行く手を、もう一方が身を放り出して阻むことがあった。 私は大きくなったら、母を幸せにしなくては、と思った。
 
 そのころ小学校の同級生達は、自分という車を運転する練習をしていた。
私はといえば、アクセルとブレーキを使い分けて、一台の車を運転する原理がまったくわかっていなかった。 アクセルとブレーキが、自分の身体をちぎるまでに引っ張り合う痛みに苛まれ、その場から一歩も動けなかった。 あのフラスコの中で。

 時々、年配の芸者さんたちがやってきて、フラスコの口から私を覗き込み、賑やかに話しかけてくれた。 その明るい笑顔に救われた。 
 私は「よんよ」と呼ばれる、お三味線のお師匠さんに懐いていた。 

 よんよの住まいに、何度か遊びにいくことがあった。 おしゃべりに夢中になる大人達から離れて、私は板張りの洗面所をそっと探索した。 
   
 天井に近い窓から、くぐもった光が差し込んでいる。 
ハンガーに掛かっていた湯上げ手ぬぐいに触れてみると、いい匂いがした。 湯気に蒸された石鹸と、おしろいの匂い。 
私は手ぬぐいに顔を押しあてて、その匂いを嗅いだ。 
手ぬぐいからひとひらの胞子が放たれて鼻の粘膜に落ちると、秘密めいた大人の世界が身体中に広がっていった。

 海外製作のドキュメンタリー番組が、ある史実を伝えた。
アウシュビッツでは、ユダヤ人をガス室に送り込む役目を、同胞のユダヤ人に負わせていたという。 半ば精神を病み、その役目から命からがら逃げた男性が、故郷のギリシャに還って家庭を築いた。 
彼の娘がインタビュアーに語った言葉に打ちのめされた。
「生前の父はユーモアがある、明るい人でした。」

 彼の心の中にどこまでも深く掘られた井戸の静けさに、耳を澄ました。
そうか、子供に微笑みかける大人の胸の内にあったのは、祈りだったんだ。
数十年を経て、記憶の中の「よんよ」と菩薩さまが重なって見えた。

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