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映画『PERFECT DAYS』の考察と感想、うっすらとした恐怖の正体
今更ながら、役所広司さん主演の映画『PERFECT DAYS』を見た。特段映画好きというわけではない私がこの映画を知ったきっかけは、藤原さくらさんと日高七海さんがSpotifyで配信しているポッドキャスト『ファミジワ』だったので、本編にSpotifyという単語が出てきた時、ドキッとした。客席は年配の方が多かったのであのシーンに「フフッ」となっていたのは、おそらく私だけだったような気がする。(8:40くらいにお話ししているので、ぜひ)
映画を見終わった後、「こういう何気ない日常を大切にしないとな」と前向きな気持ちになった一方で、「え、これってちょっとホラーじゃない…?」と、うっすら怖い気持ちになった。ジャンルとしては全くホラーではないし、どちらかと言うと一見ほっこり系の内容なのだが、なんか怖い。というわけで『PERFECT DAYS』を見て感じたうっすらとした恐怖の正体が何なのか、考察してみたいと思う。以下ネタバレです。
度々出てくる”子ども”の存在
私が平山に抱いた最初のイメージは「子ども好きな人なんだろうな」だった。公園のトイレで遊ぶ子どもを微笑ましそうに見守ったり、トイレで隠れていた少年を外に連れ出して母親と引き合わせたり、横断歩道を渡る保育園児を眺めたり。部屋で大量の植物を育てていることもあり、自分よりも小さくか弱い命に愛情を注げる人なのだと感じたのだ。姪のニコが家に来た時も嬉しそうにしていた。
だが、これが「平山っていい人そう」という一種のミスリードだったのかもしれないと今になって思っている。
ルーティーンが崩れても怒らない平山の、唯一の怒り
平山には毎日決まったルーティーンがある。地面を擦る竹ぼうきの音で目覚め、布団を畳む。昨夜読みかけにしていた本をパラパラとめくる。階段を降りて歯を磨く。ひげを整えて顔を洗い、霧吹きを持って上の階へ。大量の植物に水をやり、制服に着替える。玄関に並べてあるものを順番に取り、ドアを開けて空を見上げる。敷地内の自販機で甘そうなコーヒーを買う。運転席に乗り込んで、コーヒーを一口飲む。カセットテープを選ぶ。仕事に行くまでのこのルーティーンは、基本的には崩れない。
仕事が終わった後は、一度家に帰って着替えて自転車で銭湯に行く。その後お気に入りの居酒屋で飲む。家に帰る。うとうとしながら本の続きを読む。限界を感じて眠る。この繰り返しだ。
こんなにも一つ一つの行動がパターン化されていると、一つリズムが崩れると腹が立ってしまいそうなものである。だが平山は、このルーティーンが崩れることにあまり抵抗はなさそうだ。同僚のタカシに車の助手席を奪われて、あげくの果てに自分のカセットテープを売られそうになっても、ニコに自分の布団を貸すことになっても、何のこれしき、ひょうひょうと過ごしている。
タカシいわく「めちゃ無口」な平山が、唯一怒りの感情をあらわにしたシーンを覚えているだろうか。それは、タカシが突然仕事を辞め、自分の仕事量が一時的に増えてしまったときだ。おそらくシフト担当者であろう人に電話で「毎日は無理だから」「誰でもいいからよこして」と強めの口調で言い、車のドアをバタンッと乱雑に閉めていた。
毎日コツコツと仕事をし、自分だけの楽しみを持ち、小さき命を愛でる心を持つ平山ならば、仕事の相方(しかもそんなに役立っていたわけでもなさそうな)がいなくなったところで、淡々と仕事をこなしそうなものなのに。この小さな違和感も、平山が「ただのいい人ではないのでは」と疑う一つの要素になった。
木は友達、だけど支配する
もう一つ、平山に少し恐怖を覚えたのが、仕事の休憩に立ち寄る神社での出来事だ。平山は大きな木の根元に、小さな芽が生えているのを発見する。そして僧侶に視線で確認を取り、慣れた手つきでその芽を取る。新聞紙で作ったようなカップにその芽を入れる。家に帰って鉢植えに移し替え、コレクションする。この一連の流れを見た瞬間、あ、ここにある植物たちはこうやって平山の家に集まってきたのだと確信した。
ニコに「木は友達?」と聞かれ、友達だと答えた平山。毎日木漏れ日の写真を撮り、『木』というエッセイを読んでいる平山。彼は本当に「ただの植物好き」なのだろうか。
ちなみに、作中で平山が読んでいる『木』というエッセイの中に、こんな表現がある。
木は口もきかず歩きもしない慎み深いものだが、なじみ親しむばかりが木との交際ではない、地を隠すもの、広さをまどわすものとしても、心得ていなくてはなるまいと思う。生きていのちのあるものは大概が、どこか、なにか、はたからは思いのほかの、あやしい一面をもっているらしいが、はからずも樹木の惑わしを垣間見たような気もした。これだから少くも一年四たび、四季の移り変わりを知るのは、ものの基礎だといえる。
この「生きていのちのあるものは大概が、どこか、なにか、はたからは思いのほかの、あやしい一面をもっているらしい」という一文に、平山を重ねてしまったのは私だけではないはずだ。
はたからみれば平山は、ささやかな生活に幸せを見いだせる働き者。だが、写真、植物、本、カセットテープなどを大量にコレクションしているのはなぜなのか。どこか狂気じみた執着心や支配欲を感じずにはいられない。
なぜトイレ掃除をしているのか
平山がなぜトイレ掃除という職業を選び、古びたアパートで独り暮らしをしているのか。それはどうも「父親」に要因がありそうである。
平山の妹の身なりを見ると、平山はかなり裕福な家庭で育っていたことが分かる。だが、平山は父親に何かしらの「支配」を受けて、家を飛び出した。妹とは10年も会っておらず、家族とはほぼ絶縁状態だ。また妹は「兄(平山)とは住む世界が違う」と言っていることも明らかになっている。
ニコは、平山の部屋にあった短編集『11の物語』を読み、「自分もヴィクターになっちゃうかも」と平山に訴えかける。ヴィクターとは、『11の物語』の「すっぽん」という話に出てくる少年なのだが、ヴィクターは母親からの「支配」に悩み、最終的に母親を殺してしまう。
ニコはおそらく、学歴や家柄のことで厳しく育てられているのだろう。そしてきっと平山もニコと同じように育てられてきた。平山は「支配」「独占」から逃げたかった。逃げ切ったつもりだった。それなのに。自分の中にある支配欲、独占欲の存在や、独占したいけれどできない存在、自分の生活はこれでよかったのかと思ってしまいそうな感情…そんなものに平山自身が「支配」されているのだ。
最後の何とも言えない表情の意味
物語のラスト、西日に照らされながらハンドルを握る平山の姿が映し出される。平山の表情は嬉しそうにも悲しそうにも見える。幸せそうにも泣き出しそうにも見える。自分の小さな世界と日常を、誇らしくも憎んでいるように見える。
映画の最後に「木漏れ日」の意味がこう記される。
『こもれび:風に揺れる木の葉によって生み出される光と影の揺らめきを表す日本語。それはその瞬間に一度だけ存在します。』
人生には光の瞬間と影の瞬間がある。眩しくて目が開かない日も、影と影を重ねてどうにか濃くしたいとあがく日もある。そして人には光と闇の部分が必ずある。そのことを平山はどうにか理解しようとしていて、受け入れようとしているような気がした。この瞬間瞬間を生きてみるしかないのだと、言い聞かせているような気がした。
『PERFECT DAYS』うっすらとした恐怖の正体
『PERFECT DAYS』のうっすらとした恐怖の正体は「完璧な生活の中に潜む不完全さ」だったのだと思う。平山は決してパーフェクトな人間ではない。そもそもパーフェクトな人間なんて存在しない。日々の中に潜む不完全さに苦しくなる時と、でもこれが自分のまぎれもなく”完璧な日々”なのだと思える時。その一瞬一瞬の連なりこそが人生なのだ。