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感応と瞑想法

感応はどうにもならない。

何か事が起きる前に必ず感応が生じる。

その時点ではコントロール不可能。

管理の要求が生じるのは、感応した後の時間の裡。

何を管理したくなるのかというと、感覚。

それでもそれが、自分の感覚か他人の感覚かわからなくなる。

そもそも、新しい人にはじめて会う前からその人物と感応している。

テレビを消した後の余韻に集注してみる。

それも過去にスイッチを消した時の瞬間に対してしてみる。

正座して、過去の記憶の裡にあるテレビを消した瞬間の余韻に集注する、ということだ。

余韻とは自分の身体の裡側で減衰してゆく感覚の変化ということになる。

私はテレビ世代なので、社会と切り離される瞬間として、テレビを消す瞬間の身体感覚の変化をよく覚えている。

臍の緒を切られる瞬間の大衆化された感覚。

かなしくむなしい稽古だが、やる価値はある。

インターネット時代の今現在にテレビを消しても何も感じない。

この稽古をするには、せいぜい20年くらい前の感覚の記憶を呼び出す必要がある。

若い人にこの稽古は出来ない。

スマホの電源を切る瞬間は身体で捉えられない。

とりあえず画面を消す瞬間も。

むしろスマホの通知音が鳴ってぎょっとする瞬間が印象深い。

スマホによって常時接続の感覚を得たらしい。

掌に収まるほどにデフォルメされ縮小された社会だから常時接続できる。

ここは管理可能だ。

でもどうも本質的にはこのスマホの世界とは身体を切断出来ないようだ。

「今日は何も出来なかった」と思ったら、その日に集注する。

裡側で起きてることに過去が折りたたまれていくからだ。

何度も何度も繰り返すと、意味を産まなかった過去に向かう現在が無価値になる感覚を得ることが出来る。

この時間はゴールに向かってない。

さらにさらにその無価値な瞬間に何度も何度も集注すると、時間が重畳する。

意味の発生と消失の間隙に集注、というと聞こえがいいが、これは、ようするに人生の失敗の瞬間に集注するということで、だからそこでやっと社会から切り離される感覚が得られる。

以上の瞑想法はニートやひきこもりといわれている方々は毎日毎分毎秒自然に行っている。

ここで、ほんとうに本質的に人生を間違った経験があるかないかが問われる。

ちょっとした錯誤失策でなく、取り返しがつかないことをした経験、ないしはその状況に自分が関与した経験。

道を外れてしまった、という感覚。受動化された完了形。この線に乗ったらもう元には戻れない、という感覚。過去に対する認識。未来の消失。

問題は感応の発生であり、その源泉。

現在婚活や妊活をしている方々が真に求めているものは、感応の初発であるわけだが、これは意識的な管理執行は不可能。認識すら危ういと思う。

マッチングアプリといったものは感応というそもそも管理不可能なものを統括的管理下に置こうとするものであるが、自分は悪しざまには否定できない。

ただ、営利目的で設計されているシステムであるため、マッチングに至らない外側の時間は線上の時間へと意味を織り込めない。残り時間が少なければ少ないほど、そうなる。残り時間は生物学的に決定されてる。

時間を審査する最終審級がここにずれ込んでいるわけだが、必然としてこの時間は分子生物学の技術によって延長が図られようとしている。

ぐるぐる巻き取られる時間が、もう一度平たく引き伸ばされて直線になる。それをどこまでもびよーんと伸ばしていきたいらしい、ある種の方々は。

身体の裡には様々な点線面としての時間と感覚が混在してる。

時間と感覚そのものが混線しており、それが身体の様々な処に潜在している。意識は線形であり、だから一側に硬結が生じる。身体は非線形であり、だから身体上に硬結は現れたり消えたりする。

忘却の彼方などという言葉があるが、捉えて手繰っていくと、何故忘れていたのかさえ理解できない時間に遭遇する。

つまり、本人が忘れている処。

知らない処でなく、忘れている処。

忘れている処が誰かと知らないうちに共有された時、感応するようだ。
(2022年5月16日執筆)


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