湯本裕二

野口整体の道場の音和塾を主宰しています。中央線西八王子駅から徒歩4分です。 https…

湯本裕二

野口整体の道場の音和塾を主宰しています。中央線西八王子駅から徒歩4分です。 https://www.otowajuku.net/

最近の記事

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『クーヨン8月号』2024年7月3日発売

クレヨンハウスが発行している『クーヨン』という育児雑誌の8月号に、10ページに渡って「熱中症や夏バテしないための手当法」という趣旨の記事を書かせて頂きました。 『クーヨン』は0~6歳のお子さんを対象とした育児雑誌です。 野口整体の専門的な知識のないお母さまを念頭に置いて手当法をお伝えしました。 それでも一般の方からしますと、かなり難しいというか突飛な内容なのかもしれません。 説明不足のところもあると思います。 わかってはいるのですが、あんまり簡略化すると本質が失われて

    • 西洋占星術

      最近、友達に求められて、趣味でやっていた占星術をしたんです。 その時、生まれて初めて占星術で報酬を頂きました。 その友達の友達も紹介されて、先日星読みしました。 なんだか、自然と依頼が増えてくるわけです。 久しぶりに占ったんですけど、結構楽しいんですね、これが。 占星術はただの趣味というか、自分のその時々の様々な選択に於けるオプションの一つという感じの位置付けでした。 この20年位は、自分で自分を占って色々なことを占いで決めてきたんです。 それらの占いは基本的に

      • 季節の操法

        散歩していて、30メートル位ある木の梢をふっと見上げると、さらさら揺れていた。 木の梢の動きに合わせて目が細かく動いた。 見上げているので頸椎2番も弛む。 口が開いてポカーンとする。 この季節は目も頭も弛みます。 冬だとこういうことは無い。 葉が無いので、木を見上げても目は固定されている。 寒々しいので余り樹木をぼんやり観ることも無い。 夏は神経を弛める時期。 冬はやはり神経を使う時期です。 季節によって細かい身体運動が規定されています。 所によってもそ

        • 開眼と閉眼

          開眼時は美に捉われている。 閉眼時は死に捉われている。 耳と鼻はそもそもから死を内包している。 さらに鼻は息に捉われており、境界の確定と律動の強弱が意識を構成する。 口において快不快の時間の先に死が待ち受けている。 赤子を取り上げるのは手による。 死の際で集注するのは息だろう。 産まれるのは喉からで、その泣き声は親の耳へ貫入する。 耳は塞げない。 手であやす。 整体の根本がここにある。 目と耳と鼻は開いている。 口は閉ざされていて、手で触れている。 (

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        『クーヨン8月号』2024年7月3日発売

          みるだけじゃつまんない

          真冬のこと。 電車に乗っていた時、息子が窓を開けた。 「勘弁してよ」と私は切れ気味に言った。 息子はこの冬はTシャツで通した。ジャケットは雪が降った日、一日だけ着た。 何度何を言っても無駄で、結局冬を通してTシャツしか着なかった。 寒いから閉めろという私に、息子は「みるだけじゃつまんない」と言った。 私は、へえ、と思って、それ以上小言をいうのを止めた。 ただのいたずらかと思ったら、違った。 子供はたまに「確かにその通り」という他ないことばを直球で投げてくる。

          みるだけじゃつまんない

          何処かにいて何かをしてる人

          何もない、ということはない。 何もないわけない。 常に何かがある。 昔のことだけど、私はそこそこ大きな駅で夕刻以後の時間何度も駅前を往復して、会社帰りの人々の顔と動作を観察していたことがある。 一日に数百人くらいか。 仕事が終わっての家路。 帰途での表情。 疲れ切っていて、明日も仕事だ、早く家に帰りたい、という表情を皆さましておられた。 全員同じ表情で個体の区別はつかない。 こんな疲れる無駄な時間は早く終わらせたいと、呆然と足早に歩く。 帰途のこの時間は皆

          何処かにいて何かをしてる人

          感応と瞑想法

          感応はどうにもならない。 何か事が起きる前に必ず感応が生じる。 その時点ではコントロール不可能。 管理の要求が生じるのは、感応した後の時間の裡。 何を管理したくなるのかというと、感覚。 それでもそれが、自分の感覚か他人の感覚かわからなくなる。 そもそも、新しい人にはじめて会う前からその人物と感応している。 テレビを消した後の余韻に集注してみる。 それも過去にスイッチを消した時の瞬間に対してしてみる。 正座して、過去の記憶の裡にあるテレビを消した瞬間の余韻に集

          感応と瞑想法

          人称

          息子が、自分のことを「僕」と言った。 2才9ヵ月。 それまでは基本的に「〇〇ちゃん」と自分の名前で自分のことを呼んでいたが、突然「僕」と。 その前に何故かたまに「あたし」と言っていた。 これも不思議だった。妻の真似をしたのか。 私は日常的には人称を「俺」と言ったりするが、「僕」とは言わない。 何故、息子は「僕」と言うのか。 きっと自分自身を言語野で把握する抽象度が一段上がったのだろう。 「僕」という人称には、性別と年齢が加味されている。 自分で自分の社会性を

          いやだとだめ

          最近の息子は「いやだ!」「だめ!」ばかり。 2才になると「いやいや期」というものがやって来ると言われている。 この頃から徐々に自我の輪郭がはっきりしてくるようだ。 自分の裡からの欲求と外からの言葉とを、この年頃で身体の奥底で緊密に結び付けるべきと感じる。この靭帯が緩いと身体と言葉の濃度が均等にならないので、子供の目から見た将来の目測が危険なものになる。 この子供の欲求(大人から観るとほとんど合理性などなく理不尽な)はなるべく否定しないでおきたい。 それにしても、この

          いやだとだめ

          風呂

          自分でもお湯に浸かりながら、子供をお風呂に入れていた時、子供が騒いでしまったのですが、理由が分かりませんでした。 妻の指摘でお湯が熱いことにやっと氣づきました。 私が疲れていたんです。熱いお湯に浸かりたかった。 指導者として情けないことですが、これは非常に示唆的な出来事でした。 しかしこの時はじめて、「度」というものが腑に落ちた氣がしました。 自分の適温と子供の適温は違うということ。 当たり前のことなのですが、自分自身もお湯に浸かっていると、そして、自身が主体とな

          失せもの

          子供が生まれてから、沢山のものを失くしたり壊したりした。 クレジットカードは2枚失くした。 普通はそんなことはありえないが、育児中はありえないことが起きる。 スマートホンのSIMカードも失くした。 散々探しても出てこないので、どうやら子供が私が見ていない隙にゴミ箱に捨てたようだ。 氣が付かずにそのままゴミの日に捨ててしまった。 道場に持って行ったはずの、岡島瑞徳先生の本もなくなってしまった。 道場にあるはずが、何処を探してもない。 これもどうやら、駐車場に本を

          風邪

          子供を観ていると風邪を引くと、引くたびに成長する。 これは明らか。 風邪が節目となる。 風邪により何かが身体で起きている。 ウイルスにより風邪を引くは虚偽。 身体により風邪を引くも虚偽。 必要な時に必要なことが起きるが真。 身体が出来事を経過しうるかは氣の持ちよう。 氣が身体を導くように感じる。 感じるのであって、考えていない。 氣が壊れれば身体も壊れる。 何が生じるかはわからない。 ただただ謎。 正解には斬近しうるが、到達しない。 翻弄される裡で

          階層

          上品な少年に会った。 この辺りで少し経済的に裕福な地区。 ああいう子が中学受験とかするんだなあ、と。 明確に違う。 ちゃんと裕福。 身体周囲の氣がクッキリしている。 親切で知的な大人のみに囲まれて育った氣。 我が家は車で方々の公園に出かけて、複数の公園で遊ばせている。 公園ごとで人間の様子がかなり違う。 階層が地区で区切られていることを実感する。 別の少年。 市民センターを出たところで、話しかけられた。 小学1年か2年位。 その市民センターでブレイク

          遊び

          隣室の外国人一家のお父さんの言うには、これからは「遊び」が大事とのこと。 プログラマーをなさっているとのことでしたが、これから先の時代は、プログラムなど当たり前になるということらしいです。 きっとAIの助けなど借りて誰にでも出来るものになるのでしょう。 その時に大事なのは遊ぶ能力であると。 これから先の時代は細かいことなどどうでもよいのでしょう。 根本的なところで、遊ぶ能力が無いとクリエイトなどできないと、私も常々そう思っていますので共感しました。 子供たちはとに

          つかれた

          「つかれた」息子がはじめてこの言葉を発した。 隣の部屋に引っ越してきたアメリカ人家族と仲良くなり、そのご家庭の姉弟と息子は年が近いため一緒に遊んだ。 帰ってきて、寝る前に生まれてはじめて「つかれた」と言った。 そしてあっという間に寝た。 息子は一人っ子で近所には子供も余りいない所で暮らしているので、たまに公園で会うお友達しかいない。 コロナのこともあり、あまり外出しなかったので、2年間遊び相手といえばほとんど私たち夫婦だった。 平穏な毎日だったわけだが、常に今は永

          絵本

          息子が1才くらいの時、『ノンタン』の絵本が好きだった。 とくに『はみがき はーみー』のこの楽し氣なページがとても好きで息子は何度も読むことをせがんだ。 息子は、ほぼ妻と私の二人で育てたが、最初から大人数でわいわいやっているこの感じが好きだった。自分は経験していないのに。 妻も私もいちどきに多数の人々との交流をするのは好きではない。 息子は最初からこういった雰囲気が好きで、不思議だった。 やはりどうも性格は生まれる前から決まっているような感じがする。 絵本は現代の育