『感覚の論理的な実現ーー「マリ&フィフィの虐殺ソングブック」』

本批評の再公開の経緯

 この批評が執筆されたのは2004年の暮れから2005年の初頭の間。
 私が29才の時。
 もはや20年前だ。
 脱稿後は周囲の友人が数名読んだが、ほぼ理解されず、そのまま死蔵。
 その5、6年後に氣が向いて当時運営していたblogで詳細に解説を書き足し公開。
 その時に多くの方々が読む。
 小説の、批評の、その批評をさらに自分で解説して、ようやく元の小説が理解されるという実に興味深い言語体験をする。
 また本批評は、ドゥルーズの理論の正当性を論証しながら、同時に、樫村晴香のドゥルーズの理論への批判、への批判としても、テキストが組織されている(最近の彼の論考を幾つかざっと読んだが、やはり何ヵ所も反論可能)。
 とはいえ、執筆時はあらゆる意図や運動が自動化されていた。
 中心にあったのは中原昌也の驚異的な無意識。
 私はその無意識の周囲の領域をただひたすらに半ば意識を失いながら言語で追跡しただけだ。
 テキストの意味に氣付いたのは執筆後。
 この作品論の社会的意味と、ほぼ誰にも理解されなかった社会的経験が、身体と言語の離接に対し、私をさらに直接的に接近させることになる。 
 不思議なことに、本稿を脱稿した直後に野口晴哉の本を偶然手にする。
 そして、文学と音楽の道を徐々にはずれ、整体の道に足を踏み入れるわけだが、まさにそこからが本番で実に奇妙な奇妙な奇妙なことが次々に連続して起きるわけだ。
 すべてはここから始まったのです。
 本稿を再度公開するに至った最大の理由は、日本人の80%がmRNAワクチンを接種し、また未だに接種し続けているからであることを最後に明記する。

はじめに

 短編集『マリ&フィフィの虐殺ソングブック』の登場人物は、感覚から得られる歓びによって自由になる。
 自由になること、これが中原の小説における唯一にして最大のテーマだ。
 彼らはどのような仕方で、どのような自由を生きる/死ぬのだろうか? 
 それを感じるためにはまず、彼らの身体構成とそこに由来する非人称的な感覚の運動を知ることだ。
 彼らは社会的なもの、つまり言語‐象徴をその世界から徹底的に排除する。
 彼らは意識を持っていない。言語野を身体‐情動の回路と切り離しているので、遠位感覚受容器(視覚・聴覚等)、近位感覚受容器(臭覚・味覚・触覚等)、そしてとりわけペニス(及び、そこに強く結合した情動である性欲)と気分に判断のほとんど全てが依存する。だから彼らの行動は行為とはいえず、それは通常の社会的意味を持っていない。
 これら、彼らの原初的身体構成に由来する認知的偏位は各人物によってスペクトルがあり、大別するとその存在様態は三つの系列に分けられる。
 すなわち、破壊の系列と、創造の系列と、触媒の系列である。
 破壊の系列は、不良‐ルンペン‐動物によって担われる。彼らは世界/質料へと自己破壊的に運動しながら落下してゆく可能的存在とでもいうべき受動、つまり野獣。
 創造の系列は、ビジネスマン‐ソーシャルワーカー‐ライターによって担われる。彼らは社会/形相へと倫理的実践を自らの徳としながら上昇してゆく完全現実態とでもいうべき能動、つまり賢者。 
 触媒の系列は、プロレタリアート‐役者‐幽霊によって担われる。彼らは世界と社会にまたがり、不安定な雇用形態に甘んじる労働者であり、その憑依する非‐存在の夢としての電波は宇宙を漂泊することを使命とする、質料と形相を運動させる動力因とでもいうべき不変の実体、つまり隣人。
 この三つの系列は対立するのではなく、生成流転しながら、運動し循環しつづけ、輪廻転生する、曖昧に振動する世界/社会の濃淡としての存在の浸透圧であり、それぞれがそれぞれを内に含んでありながら互いを夢見て求めあっている。
 だからこの形態の分類は、あくまで彼らの歓びと躍動の濃度違いであって、本質的な差異はなく、その流動する精神と情熱の感覚は存在の皮膜を通して感覚的に感染しあっている。
 以下では、第一節で破壊の系列を、第二節で創造の系列を、第三節で触媒の系列を分析・注釈し、これらの存在がどのような感覚でその生と死をまっとうしているのかを、読者の言語野上に再構成する。
 つまり、このアレンジメントを経ることによって、『マリ&フィフィの虐殺ソングブック』に記載されている歌と旋律とベースラインとリズムがよりよく響きだし、言語野でそれに感応した読者の感覚は運動しながら自由になるというわけだ。

1 破壊の系列ーー不良‐ルンペン‐動物

 破壊の系列に属する各存在は、反社会性と不協和とあらゆるノイズを有し、アンビエンスとして人目に付くことを警戒しながら、不良にぐれ、ルンペンを経て、動物に向けて一直線に落下する。これは自然へとより純粋さを増して生成‐精製してゆく過程である。
 彼らの身体には法は記載されておらず。あらゆる意志を剥奪されて条件反射へと切り詰められた存在の動きを自然に捧げることを歓びとする、世界にとって貴重な幼稚で受動的な存在である。

 1‐1 不良 

 中原の小説を読むうえで重要なのは話者の線形的語りを律儀に追っていくことではなく、話者によって描写される人物たちの身体運動と感覚の歓びが引き出す、その陽気な調子/拍子に感応することだ。
 彼らは、快活な思想と愉快なコミュニケーション・スキルを活用して、活気に満ちた生を営んでる。
 この生を読者もまたともにしたいのならば、まず彼らの特異な身体構成、つまり目・耳・口・鼻・手・ペニス、そして気分/性欲、これらの認知上の偏位を知らねばならない。
 『路傍の墓石』の冒頭、ここでは意識化‐言語化される以前の身体的感覚への没入によって、状況把握ができない男、不良の身体構成が描写されている。現前しつづける感覚の推移が説話の進行をさえぎり、語りが物語へと結像しない。

 ブラスバンドを加えての歌合戦。それは何ものにも代え難い程の本物の楽しさだろう。
外から聞こえてくる陽気なピッコロの音に、俺は今にも小躍りしたい気分になりながら、それを我慢して机の上の整理に熱中した。
「これが片付くまでに、外の催しが終わってしまわないだろうか?」
 未完成の書類を束ねたり、消しゴムのカスをゴミ箱に払い落としたりしながら、その事が心配で堪らなかった。最後にやっとナプキンで机の上の汚れを拭き取った時に、数発の銃声がブラスバンドの演奏を遮った。

「虐殺だ!」ーー俺は直感でそう思った。

 中原の小説では常に、目よりも耳が優位にあり、言葉よりも音=声に注意が向かう。
 この不良の身体は、まず耳から入る「陽気なピッコロの音」と結合した「小躍りしたい気分」と机の整理をする手の運動に分離しだし、さらにその気分が「外の催しが終わってしまわないだろうか?」という不安に微分されてゆき、そして突然耳から入った「銃声」の意味を(この後早食い競争のための空砲であることを、目で確認するより前に)虐殺という単語に反射的に結びつける。
 目と耳と口と手と気分が統一的に連繋して状況把握することができずに、それぞれの感覚が暴走して勝手に結合してしまい、身体がその感覚に受動化することで意識的な判断ができない。そしてこの不良自身も、自らに判断力が欠如していることを明瞭に自覚している。

 十七歳と二十歳の違いとは、一体どんなものなのだろうか? 体力の差、というのは何となく実感できても、精神的にはまるで変化はないと思っていた。他人はどうだか知らないが、すくなくとも俺はそうだ。ところで世間で言う研ぎ澄まされた判断力を持つ冷静な人は、いつから自らの事をそんな特殊能力を持っていると認識したのだろうか?
 この不良は通常の社会人が有していて当然の「判断力」を「特殊能力」とみなしている。不良には経験を記載する記憶装置が存在しない。不良は何も学ばないし、成長も発達もせず時間の外で生きている。不良は現前しつづける身体の躍動と感覚の充溢にしか現実感を感じない。
 そしてこのような身体構成をした不良(話者)にしか見ることができない光景が描写される。 
「スタート!」
 銃声は銃声でも、それは空砲だった。窓の下に見えるのは、血まみれの惨劇には程遠いただの早食い競争だ。人前に出るには余りにも醜い男女五人が、死に物狂いでアンパンや七面鳥の肉やコーラを喉に詰め込んでいる。彼らの暴飲暴食を、より激しくさせる為にブラスバンドの演奏が再び始まった。さっきまでダンスに夢中だった人々は、今は早食い競争を観戦して興奮している。

 「人前に出るには余りにも醜い男女五人」、つまり日常の意識と空間と時間の外に生きる顔貌をもった人々が「アンパンや七面鳥の肉やコーラ」を「死に物狂いで」詰め込む、その光景を、ブラスバンドは目から入れ、さらに「暴飲暴食をより激しくさせる為に」鼻と口から空気を吸い、音楽を彼らの耳に流し込み、そして「さっきまでダンスに夢中だった人々」は、この意味とは切り離された競技者と演奏者の口と鼻と耳と目と手の酷使を、そのダイナミックな運動の躍動と空気の流動を、目と耳から入れ「興奮」する。
 この、あらゆる判断が停止した感覚と運動の現前こそが、中原の小説が存在する世界の基本的状態であり、だから話者(不良)にとっては物語の線形的な進行は常にこういった情景の下位におかれる。
 だが、感覚の暴走はこういった穏便で幸福な情景を描写するにとどまらない。
 鼻とペニスという目・耳・口・手よりも、より本能と密接に結びついた感覚受容器官が十全に作動する様を描写しはじめるやいなや、感覚と気分/性欲の暴走は、さらに凶暴さを増していき、破壊衝動は抑圧から解き放たれる。

 十年前の駅の東口一帯は、戦後めざましい発展をとげて、名実ともに市内を代表する歓楽街となったばかりだった。地下ショッピングセンターとボーリング場の開設がさらに、郊外から客を運び込む結果となり、特に日曜日は、そういう気味の悪い連中のせいで、空気が淀んだ。口臭か体臭か屁の臭いか何だかよく知らないが、その腐ったキャベツに液状人糞をひたしたような猛臭は、まだ十代で血の気の多かった俺が、郊外からやってきた連中を見付け次第半殺しの目に遭わせるのに十分な理由だった。毎日学校にも行かず、昼飯のあとは連中を狩る事にのみ情熱を注いだ。
 当初は、近寄ってからかう程度のものだったが、奴らの臭い、又は俺の嗅覚のどちらかがエスカレートするにつれて、いよいよ言葉は無用になっていった。
「あっ、あんな所を呑気に歩いていやがるぞ」
 日曜日はたいがい親子づれで、ニコニコしながら、連中は駅前通りを歩いていたりする。そんな時は、背後から無言で忍び寄り、家族全員をバットでメッタ打ちだ。


 「郊外からやってきた連中」は「気味が悪い」。それは彼らが「世間で言う研ぎ澄まされた判断力を持つ冷静な人」であるからで、でなければ郊外には住めない。そして彼らは感覚に対する官能的な感応力をもたないのでそこに居るだけで不良にとっては「空気が淀」む存在だ。
 そして情熱的な感覚をもたない郊外居住者の「腐ったキャベツに液状人糞をひたしたような猛臭」が鼻から入り、男の破壊衝動を解き放つ。
 「奴らの臭い、又は俺の嗅覚のどちらかがエスカレートするにつれて、いよいよ言葉は無用になっていった」。臭いと鼻が分離できない、世界と自己が不可分な状態に移行した不良は、原初的な攻撃性を爆発させ、意識は霧散し、社会的意味から離脱し、破壊的な存在へと落下してゆく。
 不良はこの後カフェに入り、そこにいた郊外からやってきた教師(男はこの教師を「堕教師」と呼んで蔑む)とひと悶着をおこし「フニャチン野郎!」「碌でもない白痴の不良」などと罵られ、店を出るが、店内に架かっていた馬の絵(「どの絵も馬の躍動感を見事に捉えて非常に優れているのが、絵画に今まで余り関心のなかった俺にでも判る。本当にひずめの音やいななきが聞こえてきそうだ」)のことが気になり店に戻る(「俺は路上で
Uターンし、カフェに戻った。もう一度あの馬の絵を目に焼きつけようと考えたからだ」)。
 ここに不良の行動原理がある。不良の行動の動機は、常に感覚の歓びによって生を謳歌することであり、不良は生きることに意味など求めない。

 俺はじっくり間近で見て、よりその絵の素晴らしさに引き込まれた。黒いマチエールと淡い紫、そして金色と少々の茶色という非常に限られた色のみで描かれたその絵は、馬というよりは筋肉質な黒人のようだった。目に見えないすえた臭いが演出する野生のエロティシズム。無論、こんな興奮はまだ十代の俺には、経験したことのない未知のものだ。
 目から入った馬の絵が、「ひずめの音やいななき」を、そして「目に見えないすえた臭い」を発し、耳と鼻から入り、「野生のエロティシズム」を「演出」し、不良を性的に「興奮」させる。
 不良は、この絵の歴史性や、技術や、文脈などを言語野で理解して記述するのではなく、感覚的にのみ捉え感じた色彩と形態のエロスに浸る身体状態を描写する。
 そして不良は、この絵を子供たちの美術教室に持っていってやりたいと考える。この絵が喚起するようなエロスこそが子供たちにとって必要なことであると考えるからだ。
 そしてそんな空想に浸っていると、不良は勃起してしまう。
「ゲハハハハハハ」
 突然中年女性の下品な笑い声が、主任教師との空想上の対話を遮った。
「ちょっと、みんな見てやってよ。あいつのフニャチンがいきりたっているわ」
 絵の持つエロティシズムにすっかり魅了された俺は、完全な勃起を催していた。誰の目から見てもジーンズが、不自然な突起をしている。俺は別段、人前で勃起することが恥ずかしいとは思わないのだが。

 馬の絵を見て興奮して勃起したペニスが、中年女性の目から入り性欲を刺戟し、「下品な笑い声」(歓び)を口から発させ、そしてその「ゲハハハハハハ」という嘲笑的な音を耳から入れた男は、しかし、ここまで見てきたように意識(他者の視線)をもたないので、当然「俺は別段、人前で勃起することが恥ずかしいとは思わない」。
 感覚の歓びに浸り循環する振動に充たされたこの清澄でファンキーな空気、この意味を欠いた、目・耳・口・鼻・手・ペニス・気分/性欲の連接‐連結の調子/拍子が中原の小説の人物の典型的な生であり、身体の様態なのだ。
 だが実は、この馬の絵は教師たちよって監視され、トランシーバー(声)で絵を描くよう命令されている男が描いたものであり、自由であるはずの不良は、現実にはいまだ権力によって管理された存在に止まっている。
 不良がより自由になるにはさらに、より落下し、徹底的に人間であることを辞めねばならない。

1‐2 ルンペン

 ドロップアウトした不良がとりあえず着地するのはルンペンという存在だ。
 『ジェネレーション・オブ・マイアミ・サウンドマシーン』の冒頭「家で一人、昼間から酒を飲んでいると、何処からともなく粋な唱歌が聞こえて来た」。
 媒介の系列(後述)に属するがゆえにルンペンと感応することができる(おそらく)プロレタリアートである話者は、初手からすでに酒によって思考が摩耗し始め、感覚的になり、音楽に聞き惚れてしまっている。話者はこの「素晴らしい歌声の持ち主」を探し始める。

 そして、以外にも早く、それは判明した。向かいのアパートの住人が、ベランダで洗濯物をほしながら鼻歌を歌っているのだった。
「歌うことが好きなの?」
 話しかけるつもりはなかったのに、自然とそんなことを言ってしまった。その歌う女性は二十代位のお嬢さんという感じだ。突然、歌のことで話しかけられて、顔が少し赤くなっている。そんな仕草が大変可愛らしい。


 意味や必要や義務によってではなく、耳から入った「粋な唱歌」の素晴らしさに感応して始まる自然なコミュニケーション。話者はその「二十代位のお嬢さん」との何ということのない会話を「そんなこと言っている自分が何だか滑稽に思えて」くる。彼らは義務によってではなく感覚によって、人間関係を構築する。中原の小説では意識的に考えれば「何だか滑稽な」コミュニケーションを素晴らしい歌がとりもつのだ。
 そして、この話者がルンペンを描写してゆく。
 近所の公園に住むルンペンは「小鳥を平気で生で食べる」。飼い主に捨てられ「ここはどこなんだろう?」「どこなんだろう?」とさえずる二羽の小鳥を「鳥カゴに手を突っ込み、ムシャムシャと二羽を喰っち」まう。
 状況判断などする必要はない。今ここの、この食の歓びこそがルンペンにとっては最重要なのだ。
 ルンペンとはそんな存在だ。そしてそれ以上でも、以下でもない。

 ルンペンはようやく腹を満たすことができたので、自分の小屋へ帰って寝ることにした。小屋は公園の中にある化け物が出そうなボロ小屋だ。普通の人間なら、余りにも臭すぎて誰も住むことができない。そんな香りのする小屋だった。しかし、それは一度山に登ったことのある者なら知っている香り。登山愛好家が欲情するあの香り。ノーマルな人間なら思わず吐き気を催す嫌な臭いのことだ。中年娼婦の性器から漂ってきそうな臭い。あれはきっと登山愛好家たちが山小屋で好きこのんで、話す話題ーー猥雑な話ーーと共に、山小屋の夜を演出する為の必需品として定着しているからだろう。そのルンペン小屋が、臭いだけでなくその佇まいからして山小屋のようなムードを漂わせているのは、猥雑な話がそこで一日中聞けるからなのだ。数年前から猥談専門の有線を引いたのである。だから、もう伸びきってよく聞き取れない自作の猥談テープを聞かないで済む。以上のような山小屋気分を満喫し、ルンペンは眠りにつく。有線をボリュームにして、付けっぱなしにして
おくのだ。

 このルンペンの小屋の「臭い」は、「欲情」を刺激さえする。郊外居住者の「臭い」と違い殺意ではなく、性欲を刺激することにも注意すべきだろう。
 またルンペンの生は、この「臭い」と一体化しており郊外居住者と比べその生活の全域に渡って、貪婪で猥褻なスタイルを構築しており、強度と孤立を増している。
 小鳥を生きたまま喰い、鼻と耳から入る感覚によって興奮しつづけ、ここが公園のボロ小屋であることを気にもかけずに「山小屋気分を満喫」する、動物へと近接しつつある野性的な存在、ルンペン。

 いくらルンペンだからとは言え、こんな毎日に少しもイラつかない訳ではない。いったい何時になったら、あの下らない猥談が聞こえなくなるのか? 彼は寝床から見える暗黒を、ただボーッとながめているより仕方ない。生で食べた小鳥のせいなのか何だか気分が悪くなっってきた。そんな訳で寝つくことができず、時折かすかに聞こえる猥談に興奮したりしていた。気が付くと朝四時をとっくに過ぎている。別段喰った小鳥たちを哀れんでいる訳でもなく、今夜は何故か息苦しい。結局、一睡もすることができぬまま、朝を迎えた。

 そしてルンペンの錯乱は頂点に達しつつある。ルンペンは自分が「猥談専門の有線を引いた」ことも忘れ、流れつづける「猥談」に「イラつく」。有線のスイッチを切るという程度の行為すら為せなくなり、考えることはもとより、動くことも見ることもなくなり、ただ「何だか気分が悪くなったり」「猥談に興奮」したり、さらには「哀れ」みという人間的感情すら忘却し始めている。
 しかし、この無感覚と無関心は否定的なものではなく、動物への生成の一過程であり、ルンペンは刻一刻とその存在の純度を高めているのだ。
 そしてルンペンは朝を迎える。

 一般的に朝を表現するのに最も適した色は、白だ。しかし、ルンペンが翌日迎えた朝は一体何色と言えばいいのか。目を開けた瞬間から、何かが、目や鼻をツンとした感覚が襲った。余りの激痛に悶え苦しみながら、ルンペンは窓を開けた。生温かな空気が、大量に部屋に入ってきた。その陰気な空気はルンペン小屋の臭いと共に公園中に充満した。その日は日曜日で、遠足にやってきた幼稚園児や写生にやってきた女子学生たちがその空気と臭いを吸い、やがて陰気な大人になった。全員、例外なく若くして死んだ。それぞれに悔いを残して。

 夜には少なくとも「暗黒」は認知していたルンペンの目からは、色彩すら剥奪され「ツンとした感覚」に襲われる。目と鼻はもはや痛覚そのものになり、何も考えることができず、反射的に「窓を開ける」と「生温」く「陰気な空気」が部屋に侵入する。
 そしてその空気は、ルンペンの小屋の臭いとと混じり合い、公園中に充満し大量の若者が死ぬ。
 しかしこの死は悲劇ではなく、単なる出来事で意味はない。重要なのは、あらゆる可能性を消尽し、何も考えることのできないルンペンの感覚が為した「窓を開ける」という行動が「ルンペンの小屋の臭い」と「陰気な空気」との交感をなしたということ、この換気‐歓喜という運動だ。
 「遠足にやってきた幼稚園児や写生にやってきた女子学生たち」が陰気になったことも、死んだことも、そんなことはたいした問題ではない。貴重なのは、ルンペンを媒介として彼らの気分が大気‐臭気と混じり合い、自己の意識の卑小さと世界の容赦なさを痛感したことだ。そのことこそが宇宙にとっての経験なのだ。
 彼らを殺したのは大気‐臭気の強大さであり、大気‐臭気に対する人間の自己意識の弱小さなど自然なことであり、ルンペンは窓を開け、大気と交流しただけであるし、その時ルンペンは感覚そのものと
なっていたのだから、つまりそのときルンペンは自然そのものであったわけだから、彼らの死は人間の側ではなく自然の側に回収されるべきだ。
 ここに感得べきなのは、自然と人間が交流可能であるという事実だ。自然の強烈さと人間の儚さ、このことこそが人間にとって真に救済であるはずなのだ。
 そして、話者の後日談が語られる。 

 しばらくしたある日、いつものように一人で酒を飲んでいると、何処からともなくラテンっぽいリズムが聞こえてきた。以前、向かいのアパートに住んでいた歌好きのお嬢さんは、いつの間にかよそへ引っ越して、もうここには居ない。寂しさの余り、この陽気な音楽を聞いているのは誰かを捜そうと考えた。しかし、いざとなると「そういう若い人とは話があう訳はない」という気になり、結局ははまた一人で酒を飲んだ。

 最後に話者の、人間は思考対象ではなく、あくまで感応対象で、この「若い人」の意味・社会的地位などではなく、「粋な唱歌」ではなく「陽気な音楽」を好むという彼の感覚を、その人間と交友する際の基準としていること、そして、「一人で酒を飲」むことによって日常的意識から退却して、感覚に浸ることを選択している、このプロレタリアートの孤立した雄大さを、感得するべきだろう。

 1‐3 動物

 言葉と目を捨てたルンペンは、その存在を、さらに叫びと体臭にのみ切り詰めメタモルフォーゼしだす。最終形態、動物の誕生だ。
 得体の知れない動物が出現する『血で描かれた野獣の自画像』は役者のぶ子と動物との言語を介さないコミュニケーションが追求される。この役者のぶ子は媒介の系列(後述)に属しており、だからこそ、のぶ子は動物と交流し、動物と視聴者との間をとりもつことができる。そしてこの自然との感染力こそが、彼女が若者からの絶大な敬意を得ている理由でもある。
 のぶ子はTV番組に出演する。
 この番組の主旨を司会者が解説する。

「こんにちは。この時間は年配の方と若者が自由に語り合う為のものです。悲しいことにますます世代の溝は深まりつつあるようですが、それは決して教育だとか、行政が悪い訳ではありません。他人に責任を押し付ける余裕があるのなら、それよりもまず各世代同士が互いに歩み寄り、軽いノリで話し合うべきだと私たちは考えます。この際、年長者を敬うべきという古臭い決まり事は忘れて、無理のない、肩のこらない言葉遣いで接してみませんか」
 キャバレーの支配人のような派手な蝶ネクタイの目立つ司会者が、激しくまくし立てる。内容さえ違えば、ブラック・パンサーか何かのアジテーションのようだ。


 制度化された「古臭い決まり事は忘れて」、より直接的なコミュニケーションを志向して、国教を欠き公共的倫理をもたない日本人の各世代間の間の溝を埋めること。
 このような番組主旨を司会者は「ブラック・パンサーか何かのアジテーションのよう」に「激しくまくし立てる」。話の意味内容と声の抑揚がズレている。
 しかし、語られていることの意味(言語‐象徴)に、その人物の身体運動が拘束されていない、このことの自由こそが、まず司会者が視聴者に伝達したいことなのである。

 サイケデリックとしか呼びようのない(プリンスの『AROUND THE IN A DAY』のジャケットのような)絵のパネルで飾られたセットの中央に置かれた巨大なのぶ子の笑顔の笑顔のパネルが、ドアのごとく開き、中からのぶ子本人が現れる。
 自由な雰囲気の番組を演出する為、スタジオ内に様々な種類の動物が檻から放たれた。カエルとオットセイ、猿やパンダにまじって一匹だけ得体の知れない動物がいるのが大変目立つ。それ以外の動物は、観客席の若い観客に大変驚き、撫でられたり、「可愛い」とか言われたりしてほんわかムードになっているのだが、その生き物の辺りには人々はまったく寄りつかないのだ。何よりもまずその臭いがキツく、時折不快な鳴き声を出すのが不人気の決め手になっていた。しかも人間ぐらいの大きさの上に、どうやら目が全然見えないらしく、やたらとセットやスタッフにぶつかったりしたので、皆迷惑がった。

 動物はもはや完全に目と言葉を失なっている。その醜さと「不快な鳴き声」と「臭い」の「キツ」さは圧倒的で、動物は意識や社会性など当然まったくもっていない。

“ギェッ、グェーッ”。異臭を放つ、無気味な生き物がおぞましい叫び声を上げた。体中からぬめぬめした粘液を出している。この液が不快な臭いの元なのだろうか。今まで無視するよう努力していたのぶ子も、これ以上我慢できず、ついに凝視してしまった。

 ルンペンはいまだ「ボロ小屋」に臭いを保存し蓄積していたが、いまや動物は完璧に自らの体液によってのみ臭いを所有しており、その存在としての独立性・自律性は極点に達している。
 そしてのぶ子は、鼻から入る揮発した動物の体液、そのキツイ臭いの感覚の現前を無視できず、目からも動物を入れたいという本能的欲求を抑えられない。

 それは身の毛がよだつ忌わしい生き物としか呼びようのない物だった。そのすべてが憎悪や嫌悪を催さずにはいられない。まさに病的なイマジネーションの産物そのものだ。何故、皆こんなに気味の悪い生き物に戦慄を感じないのだろうか。一刻も早く、こんな見るもおぞましい生き物が消え去って欲しい、とのぶ子は心の底から思った。

 一見するとネガティブな感情が語られてはいるが、しかしここで、この動物とのぶ子との間には、より本質的な交歓が為されているのだ。表面的な感情は陰性でも、交流の本質は陽性だ。
「あの胸クソ悪いのは、いったい何なのよ。気分がわるくなってくるから、早くどこかへやってちょうだい」
 忌まわしい生き物は、どうやら自分の事を話題にされているのに気付いたらしく、息を殺してのぶ子の方を意識しているのが判る。
「我々も好きで連れてきている訳じゃないんですよ。ただ、ああいう醜いのも平等に出さないと、差別だとかいって抗議する人たちがいるんですよ」
 若いADは小声で答えた。その頼りない返事にのぶ子は腹が立った。ーーいかなる理由であれ、不快なものは不快である。そんなものは一刻も早く排除すべきだーーのぶ子は怒りを静める為に、テレビモニターの方へ神経を集中するように努力した。
 差別というのは、言語野に由来するものなので、のぶ子が、この動物を排除したいと願っても、この感情は言語的・象徴的・社会的に構成されたものではないので、これは差別ではない。
 のぶ子が怒ったのは、むしろテレビ局のポリティカル・コレクトネスに対してであり、そんなものはのぶ子と動物の間の感覚的・情熱的な嫌悪と憎悪の関係性にとっては偽善でしかない。
 のぶ子という存在の本質が動物の存在の本質そのものに「胸クソ」が悪くなっているのだ。この感情は一般化・普遍化できない彼らの間だけのものだ。

 そこには彼女の舞台を録画したものが映っており、まさにこの芝居の見せ場と呼ぶべき名場面が放映されている最中だった。自分の熱演ぶりに、のぶ子はモニターに釘づけになった。が、それもつかの間、突然大きな物音がしてスタジオ中の人々の動きを止めた。例の不快な生き物がのぶ子の顔の写真パネルに自ら衝突し、血の海の中で生き絶えていたのだ。彼女の笑顔に血で手形のように刻印された、謎の生き物が存在した唯一の証し。それが、本当に顔に付いてしまったような気がして、帰宅後に一生懸命顔を洗った。

 動物が存在した唯一の証しとしての血痕。この血が直接にのぶ子の顔面に刻印される。
この動物を殺したのはあるいはのぶ子の消え去ってほしいという感情と顔(のパネル)であり、だからこそ、のぶ子の存在と感覚を通してのみこの動物はこの世界に刻印される。
 この動物とのコミュニケーションとその存在の記憶は、言語野に記載されるではなく、のぶ子の顔(面‐パネル)に直接に、感覚的に、刻印される。この触媒としてののぶ子が存在しなければ、この動物の存在はこの社会/世界に登記されなかっただろう。
 動物はいまや完全に受動的な存在へと落下したので自己を表明することはない。その生のスタイルが描写されるには触媒の系列に属する存在が必要なのである。
 こんな風に、この世界/社会で生きるものはそれぞれ、お互い排除を願い、しかし受容し合い、知らず知らず助け合って生きているこの複雑な死/生を、中原の小説は健やかに描写する。

2 創造の系列ーービジネスマン‐ソーシャルワーカー‐ライター

 創造の系列に属する各存在は、社会性とソウルフルなビートを有し、ベースフルな中庸を実践する有徳な人間を目指してそれぞれの現場で自己を上昇させる。しかしそれは、破壊の系列の存在よりも劣った存在というのではもちろんなく(中原の小説には階級による上下関係などは存在しない)、むしろ今現在の日本の現実の生活世界と人間性が解体され尽くした社会状況を鑑みれば、社会にとって貴重な篤実で能動的な存在である。  

2‐1 ビジネスマン

 『独り言は人間をより孤独にするだけだ』でビジネスマンは、耳から入る目覚まし時計の音ではなく、鼻から入る精液の臭いによって、性欲を刺戟し、感覚を活性化させ、覚醒する。 

 突然、精液のツンとする臭いが鼻を襲う。黒い本の表紙には本物の女性器が貼り付いており、その中は精液でたっぷり満たされている。昨日までは普通の目ざまし時計をつかっていたのだが、今日からはこの女性器から臭ってくる精液で朝起きることにした。その後は、まるでテレビのチャンネルを替えたかのような全くノーマルな生活が始まる。素早くジャージに着替えて、マラソンをする為に外に出る。が、空の様子を見て「今日は天気がよくないのでマラソンは中止だ」と独り言を述べてまたベッドに直行。
 絵に描いたようななまけものぶりが、きっとサラリーマン諸君の反感を買うであろう。
しかし、この彼こそがまさにビジネスの神様として人々に記憶されるべきおとこなのだ。


 遅刻に対する恐怖ではなく、性の歓びによって起床するビジネスマンは「ノーマル」な日常生活を始めようとするものの、大気と感覚的に対話してしまい、すぐに一日の予定を変更してしまう。
 しかし、資本の論理よりも感覚の論理を優先するこんな男が、本当にビジネスマンと言えるのだろうか? いったい何故こんな男が「ビジネスの神様として人々に記憶されるべき」なのだろうか? 

「俺にとってビジネスとは」。男は口いっぱいに溜った唾を一気に飲み干してから、同じ言葉を言い直した。「俺にとってビジネスとは一体何なのだろうか」ここで彼は一回、軽く咳をする。「少なくとも、私欲の為だけではない……」まるでインタビューを受けているかのような気分で独り言を話していたが、気がつくとすっかり眠っていた。

 このビジネスマンの労働の動機は私欲などではない。ビジネスマンは危機意識をインセンティブにするようなサラリーマンなのではないのだ。ビジネスマンはそう断言しているかのようだ。その証拠にこのビジネスマンは全く何の危機意識もないかのように、すぐさま眠り込んでしまう。
 そして、ビジネスマンは目を醒ますと既に夜であった。彼は独り言を喋り始める。

 最早彼にとって独り言とは、脳より先に思考される場であった。ようするに思考されるべき内容が、一度音声として空気中に出現した後に、自らの耳を通ってからやっと脳に入ってくるのだ。巨大ロボットを操るアニメのヒーローが武器を使う時にいちいちその武器の名を叫ばなければいけないのと同じことである。
 「俺は絶望にうちひしがれたかのように、死に場所を探している。もし、俺にラッキー・チャンスが廻ってきたのなら、おのずとそれは見つかる筈だ」

 ビジネスマンは独り言を喋る度に、想像の他者も絶対の他者もいないことを実感する。
現実の自己の周囲には口と耳と空気の振動しか存在せず、そこには孤独以外のものはなにもない。
 だからビジネスマンは死など恐れない。彼はむしろ「死に場所を探してる」ほどだ。

 そして彼は真夏の夜空を見上げる為に、外に出た。空はかつての戦争を思い出させる、真っ赤な色をしていた。耳を掩う爆撃機の音や爆発音が全く聞こえないせいで、かろうじてこれは戦争でないことを気付かせる。しかし、それ以上の何やら忌まわしい重い空気が、その赤い空から漂ってくるのは否めない事実であった。やがて、遠くから教会の鐘の音が聞こえてきた。
「今、聞こえている鐘の音は、結婚や出産を祝う類いのものではない。人間が太古の昔より行ってきた淫蕩を呪う為の鐘だ。きっと駅前にオープンしたポルノ・ショップに、神の審判が下される時がやってきたのだ!」

 真のビジネスマンとは、「真夏の夜空を見上げる為に」外出するような哲学的なダンディのことをいう。
 ビジネスマンの目と耳はかなりの程度離断しており、「真っ赤な色の」空を見て戦争の記憶と結び付けてしまい。それを、耳の側が補正することでかろうじて今現在の現実を認識させている。
 ビジネスマンは「鐘の音」を「人間が太古の昔より行ってきた淫蕩を呪う為の」もので「ポルノ・ショップ」に対する「神の審判」であると解釈する。
 この認識は錯誤ではない。事実「ビジネスの神様」はこの後その店、『ビッグ・ポルノ』をこう批評‐審判する。 

 しばらく駅前の広い土地は、ただの空地であった。そこへ大型チェーン店のポルノ・ショップ『ビッグ・ポルノ』が開店したのである。その初日には大勢の大人が大挙して訪れたが、次の日には誰一人として客は来なかった。実は『ビッグ・ポルノ』の名はただの客寄せに過ぎず、本当のところは中身は全く普通のゴルフ・ショップであったからだ。名ばかりのポルノ・ショップにポルノと名乗る資格はないのである。

 『ビッグ・ポルノ』のビジネス戦略というのは、つまり、耳から入った「ポルノ」という音声によって刺激される性欲の力によって眼前の「ゴルフ・ショップ」という視覚対象を打ち消し、そうすることによって客寄せとして店名を機能させる、というものだ。

 男はよく考えた挙句、深夜、『ビッグ・ポルノ』の中に潜入することにした。その理由は定かではないが、方法は明快だ。
 隣接する雑居ビルの屋上から侵入したのである。


 「理由は定かではないが方法は明快」というのは、『ビッグ・ポルノ』の経営戦略と同じで、これこそがビジネス、つまり資本主義の神髄なのであり、この「ビジネスの神様」であるところのこのビジネスマンは、常にこのような錯乱とともに性的な歓びに満たされた生を送ることを行動のインセンティヴとしているということである。
 ビジネスマンが『ビッグ・ポルノ』に潜入するのは「鐘の音」に導かれてのことであり、彼には意識的・言語的な理由はわからない。ビジネスマンにあるのはパッションだけだ。
 そしてビジネスマンは屋上にいた二匹のドーベルマンに襲われ「追いつかれる前に逃げなければ、殺られる」と考える。男は眼前に迫った死の恐怖によってはじめて、視像(目)を思考(口と耳)と一致させる。

 男は台所の引出しにあるべきである包丁を捜そうとした。
 しかし、スプーンやフォークばかりでナイフは全く見付かりそうになかった。
 これではダメだ。とにかく時間がない。しかし、なす術もない。しかも、気が付くと、例の独り言のクセが始まってしまうのだ。
「クソッ。あの忌ま忌ましい血に飢えたバカ犬め。まてよ、あの犬二匹バラして中華料理屋にでも売れば幾らになるのかな?」
 男は電卓を取り出すとパチパチやり始めた。さすがビジネスの神様である。


 しかしこのビジネスマンは、眼前に迫った死の恐怖を、耳から入る独り言によって打ち消す。
 サラリーを受けとること(私欲)のみを目的に常に眼前の状況に拘束されるサラリーマンよりも、自分独自の身体構成によって死(資本)の恐怖を打ち消す孤独な生の、「電卓」を勝手に「パチパチやり始め」る指のこのいきいきとした動きこそが、より根源的な意味で労働といえるのではないだろうか(この指の動きと音は『あのつとむが死んだ』での拍手、『暗い廊下に鳴り響く、寂しい足音の歌』での足音や足ぶみや手拍子ともポリリズムを構成し倍音を響かせている、これはダンサブルな労働である)。
 『独り言は人間をより孤独にするだけだ』というのは、だから決して悪い意味で言っているのではなく、このビジネスマンの孤独な労働こそが、生そのものであるという、これはすべての経済活動に対する讃歌であるのだ。

2‐2 ソーシャル・ワーカー

 『ソーシャル・ワーカーの誕生』では、倫理さえもが鼻と目から入ってくる。普通倫理は外傷と選言命題によって確保されるが、人間が感覚的に掴んだ倫理によって社会参加するのならば、それはどのような形態をとるのだろうか?

 凄まじい腐臭を漂わせながら、薄汚れた台車がゆっくりと歩道を走ってくる。道を行く誰もが振り返る。しかし、何故自力でその台車が動いているのか、一目見ただけでは判らない。まさか見えない何かが後ろから押している訳ではないだろうが……。いずれにせよ、すれ違った人々はそのような事を考えてみるが、結局は答えが出ぬままその場を立ち去る。皆、やっぱり自分の事で精一杯なのである。それは外のことにも言える。どこか遠い国で、余りにも非道な政治的虐殺があったとしても、テレビや新聞を見た我々は「なるほど」とうなずいて大概はそこで終わってしまう(無論「なるほど」の中には「なるほど、まだそんな野蛮な行為が行われていたのか」という感想も含まれる)。社会的弱者に対しても同じだ。社会の様々な局面で、我々は彼らに対して見て見ぬふりをするのだ。
 やがて台車は早い朝、俺の住む家の前で止まった。


 普通の人間は無人の台車が「凄まじい腐臭」を漂わせながら移動していても、様々な社会的な不正に対してそうするように「見て見ぬふり」をする。彼ら(サラリーマン及び、その予備軍)は「自分の事で精一杯」、つまりあらゆる歓びへの無感覚な生を生きているからだ。
 だが、感覚や不正に極めて鋭敏な感性をもった男がいる。その男の鼻は腐臭と互いに引き寄せあうだろう。無人台車を動かしていたのが男の不正に対する嗅覚なのは、もはや明白だ。
 そしてこの男こそが、真のソーシャル・ワーカーとして再生する男なのだ。

 その日ソーシャル・ワーカーは起床する。 
 景気づけに元気よく窓を開けてみるが、不快な灰色の空と不潔な何かの臭いが部屋に侵入してくるだけで、何ら愉快な気分にはなれなかった。しかし、職場の上司から贈られた、このカーテンを見る度に気が滅入る。だから、なるべく目に入らないように努力していたのだが……。


 台車の「腐臭」によって感覚が活性化され、カーテンの生地に目がいく(このカーテンについては後述)が、今はまだ「気が滅入」ってしまう。男は仕事が憂鬱でたまらない。

 俺はたまらなく不愉快な気分になった。自分が幼稚な連中の仲間であるという事実に。
 ろくでもない上司や同僚、そして役に立たない後輩、その全員と顔を合わすのが本当に嫌でたまらなくなった。この先も、この先も、この状態が何十年も続くのかと思うと、今すぐに窓から身を投げだしたくなったのだった。勿論、これは自分に翼があったならの話であって、自殺願望なんてこれっぽっちもありはしない。

 一見、鬱病みのサラリーマンのようなこのソーシャル・ワーカーだが、しかし本当は、社会参加する歓びに満ち満ちている存在であることがこのほがらかな願望に明らかだろう。
 そしてソーシャル・ワーカーは「上司からプレゼントされたもので例によって大変趣味の悪いもの」であるネクタイを締めて、職場である福祉センターに出社する。

 社内のエレベーターで、スウェーデンの社会福祉研究の専門家に日本の福祉制度について話しかけられる。
「健康で文化的な生活を送りたいと願っている人にとって、この国の制度は大変素晴らしいですね」と突然、センターの中のエレベーターで話しかけてきた。俺はその意見には、まるで同意できなかったので、とりあえず無視するしかなかった。しかし、彼は一方的に話し続けた。
「いや、あなたが私の今言ったことに対して何も言わず、ただ、ただ黙り込んでしまう理由は何となく判ります。だって、いくら良い福祉制度があっても、この国の人々には健康を害した人や高齢者に対しての労りがまるで感じられませんから」
 エレベーターが開くと、車椅子に乗った中年の患者が二人、お喋りに花を咲かせつつ、ゆっくりと中に入ってきた。

「きのう、ボイラー室に十冊くらいエロ本持っていって、隠れて読んでたら看護婦に見つかってさ。全部取られた上に当分オヤツ抜きだって」
「俺も大胆なポーズの裸婦ばかりの画集を没収されたよ。べつにそれで悪いことするわけじゃないのにな。なんだって、いちいちヌード写真に対して咎めだてするんだろう。あいつら人間の裸が余程嫌いなんだろうな」

 車椅子の二人は大変不服そうだったが、俺が乗り合わせていることに気付き、まったく喋らなくなった。俺はエロ本だとか、ヌードや裸という言葉をたっぷりと聞かされて、股間が充血し始めた。

 まず、この男は完全に日本の福祉制度に絶望してること、そしてそのような話や議論にはまったく関心がないことがわかる。
 男が聴取できるのは「ヌードや裸という言葉」であり、つまり性欲と結びついた感覚にのみその神経は集中している。
 ソーシャル・ワーカーは、さらに喋りつづけるスウェーデン人に「何か気の利いたことを言って論破してやりたくなったが、何も言うべきことが思い付かない」。男には考えはない、感覚と性欲しかない。
 さらにこの後、ソーシャル・ワーカーは七階で降りた車椅子の二人を見て「七階の患者なら、余命いくばくもない筈だ」と独白する。この死が迫った二人の患者のエロティックな生の技法も、見逃さずに視線を注いでおくべきだろう。
 そしてそこに、美人看護婦が乗り込んでくる。

 次の八階は通過し、九階でまたドアが開いた。今度は若くてスタイルのいい美人看護婦が乗り込んできた。俺はその深い胸元を見ようと壁面の上の方に付いている鏡を見た。しかし、そこの映っていたのは異様に歪んだ自分の顔だった。さらに己れを凝視してみると、明らかに欲求不満である。ここまではっきりと性処理が早急に必要であると判る表情もないだろう。三カ月前に見た外国のハードコアポルノ・ヴィデオの中の、最も興奮したシーンが勝手に頭の中で再生を始めた。これを現実で再現する為に、どうやってこの美人看護婦を手伝わせるよう仕向けたらいいのだろうか……。

 ワンセンテンスごとの行動によって現前する感覚に、ソーシャル・ワーカーの感覚と性欲は加速しヒートアップする。ソーシャル・ワーカーの身体は常にいまここの感覚に忠実であり、さっきまでのスウェーデン人の倫理的な話や、患者のエロ話や、この後の会議のことなど、もはやまったく関心がない。
 そしてソーシャル・ワーカーは感覚に没入する時間(彼の生)について語る。

 セックスのことばかり考えていたので、朝からの会議はまるで身が入らなかった。そんな時は、まるで自分だけが地面にぽっかり空いた穴に入ってしまったかのような錯覚に陥るのだ。この福祉センターの近くは、高速道路や鉄道が集中しており、常にバスやトラックや列車が行き来しているのだが、今はまるでそれらの音がしない。

 ソーシャル・ワーカーはセックスのことを考えると、まず今ここの音が耳から入らなくなる。

 それはともかく、俺はセックスのことを考えただけで意識のみを内面の閉じた世界へと移動することができるのだ。その過程は毎回同じ、まず最初はただ音のない暗い空間を通り、やがて見馴れた光景が出現する。極めてリラックスできる空間という訳なのだろうか、その光景とはわが家の居間である。ただ全裸のままで佇む状態が、意識の上で(実際には五、六分の出来事だろうが)二、三時間続き、やっと静止から解かれ自由に部屋の中を動き廻ることができるのだ。まず無音であるこの空間に、音を解き放つことから始める。
 数あるレコード・コレクションの中からお気に入りのものを、居間のステレオ装置にセットする。そして、スピーカーから出てくる音の分子たちが世界に飛んで行き、全ての物体に音の生命を与えるのだ。屋外を歩く人々の足音や息や体液の流れる音、ドアの開け閉めの音、車の走る音、ジェット機の音、廊下の足音、騎手が落馬して首の骨が折れる音、市場での活気あふれる声等、すべての音がここから運ばれるのだ。そうやって俺が人々に音を与えてしばらくたつと、そのお返しにやがて女たちのあえぎが壁越しに聞こえてくるのである。

 男の内的な感覚への完璧な没入と沈潜。ここでは、今まで見てきたような頭の外側に存在する音や視像が絶対的に排除されている。これはおそらく会議中にそこで交わされる音(声)が完全に死んでおり、そのことの苦痛が、男をインナー・スペース(そこはくつろいだ気分と強く結びついた視像である居間として投影される)へ没入させているのだろう。
 だからそこで、音が死んだ世界へと逆に「俺が人々に音を与え」る。するとその返礼として、そのいきいきした音によって性的に興奮した「女たちのあえぎ」が聞こえるのだ。
 もはや会議が現実なのか、居間が現実なのか区別できないほどに、この感覚の空間は興奮している。

 その時、俺は不意に窓の方を見た。そして、あの忌まわしいカーテンを見てしまったのだ。見れば見る程、いやらしい色に思えてくる。せっかくの上司からのプレゼントだから、といって付けるのではなかった、と今さらながらに感じる。インディアンの村を襲撃する騎兵隊の絵が、そのカーテンの模様だ。気付くと俺はその中に、今にも吸い込まれそうになった。

 そして、ここまで深く感覚に浸った時に初めて、目から入るカーテンの模様と感覚的に感応することが可能になる。目と模様は完全に不可分のものになり、身体すら感覚そのものの現前に囚われそうになる。  
 そしてここで、ソーシャル・ワーカーはようやく感覚的に倫理と歴史を捉える。

 俺たちの暮らしや社会は、長い歴史の中でギャクサツによる犠牲を伴いながらも、着実な向上発展を遂げてきた。その裏には何億もの犠牲者がいたことを、決して忘れてはならない。今でこそ大量虐殺は非常に稀なものになったが、以前は権力者があたかも花火でも揚げたかの如く派手にやっていたものだ。そういった犠牲者があって、初めて人々は戦争や全体主義の引き起こす悲惨さを学んだのである。これは決して無駄な事ではなかった。
 それを知らせる為に、虐殺された人々の一部を載せた台車は、わざわざ暗い過去から今朝、我が家の前へやってきたのだろう。


 いままで、感覚的な歓びにしか関心のなかったソーシャル・ワーカーは、普通の人間の無視する無人の台車の発する腐臭が惹起する感覚によって「戦争や全体主義の引き起こす悲惨さを学ん」だ。
 気が付くといつの間にか現実の会議室に帰っていた。そして俺は「いまから、でも遅くない、ソーシャルワーカーの資格を取って人々の役に立つことをしようじゃないか。高齢者や障害者に対する、わが国の人間の感情は余りにも冷た過ぎる。まずその部分から変革していこう」と安易に思い付いたのだった。
 しかし、その倫理は言語野に記載のではなく、躍動する身体に直接に刻印されるので、不安定で曖昧なものにならざるをえない。したがってソーシャル・ワーカーは「安易に思い付いたのだった」と語らざるえない。だから、これはアイロニーではなくて自己の不確かな身体に忠実でありつづける誠実さ、と受け取らなくてはならない。
 しかしより重要なのは、このソーシャル・ワーカーに(恐らく嫌われていることを知りつつ)ネクタイとカーテンをプレゼントした上司の、人生の先輩としての無言の配慮だろう。この上司による、倫理の感覚による伝達を促した、一人前のソーシャル・ワーカーへと成長させるための巧みな感情教育には感服せざるを得ない。
 学校教育を離れたところでおこなわれるこのような個人教授こそが、地域共同体を形成し、暖かみのある人間性と公共性を形成する基盤となる。だから上司のこの時間外労働こそが、真のソーシャル・ワーキングなのだ。

2‐3 ライター

 感覚の歓びを言語によって伝達すること。これ以上に困難な仕事はないだろう。 
 中原の小説でライターは、身体的感覚の現前をどのように小説上に言説として組織するのだろうか?
 またその小説はどのように社会的に流通し機能するのだろうか? 

 男はワープロを打つ手を時々止めて、思い出したかのように同じ机の上にある機械のスイッチを押す。機械といっても見た目はただの箱で、ヴィデオ・テープを三巻位積み上げたような大きさだ。赤いプラスチック製のそれは、上の面に白いボタンが中央にに付いてるだけのシンプルなもの。どんな仕掛けなっているのか中身をバラす以外(と言っても表面にはネジ等の止め具がいっさいないのだが……)、知る術はない。中身に対する好奇心を、より我慢できなくするのが、そのボタンを押した時に毎度発せられる音だ。品のない子供が放屁に似せて出す音ーー手の甲に口を付けて、思い切り息を吐くと出るーー「ブブーッ」という音が最も似ている音といえばいいのだろうか?

 まず、機械のボタンを押すという行為が社会的な意味や価値と切れている。この機械は中身も意味も目と言語野で確認することができない。ボタンを押すのは好奇心によってで、またボタンを押す指のその感触とその時に発せられる音が耳から入り、感覚を刺激し、無意味で無価値な好奇心を昂進する。

 昨日書いた分を読み返して、やっぱりいいなあと感心する。そこで男は思い出したかのように机の上にある機械のスイッチを押す。そうすれば、自分の生きている時が、まるで映画のフィルムを切断すうかのようにスパッと区切れるのだ。それは人が今まで見つめていたある一点から急に別の場所を見ているという行為に似ているのかも知れない。

 ここで語られているのは、視覚の時間からの切断と接続ということで、その目的は資本の作る時間から身体を分離して、時間そのものを自分自身の身体で作り、そこで生きることを始めるということである。
 ライターは「本」に手を入れ、新しい文章を書き加える。小説とはライターにとって生命そのものである。そこに書かれているのは、感覚の充溢に歓ぶ言葉である。言葉そのものが生命をもっている。

 男は椅子から立ち上がり、本棚へと向かう。本たちは一斉に男に向かって、アピールを始める。「今度は、僕にしてよ」「いや、次は私の番よ」。そんな本たちの主張を、いちいち無視するのは大変だ。
 やがて『小公女』の背表紙が目に入ると、男はそのギュウギュウ詰めの本棚から、その本を丁寧に引っぱりだす。男にとって本は人が頁を開くまで、死んでいる生き物として本棚に収められている物体に過ぎない。読んでやることで息を吹き返し、さらに男の手で新たな頁に新しい物語を書き足してやることで成長して行くものなのだ。


 文字は(言語)はそれ自体ではただ死んでいる。その文字を読んで(黙読であれ)、目から入った文字を口から音声として出し、耳からもう一度入れることによって、はじめてその本‐小説たちとコミュニケートできる。そのときはじめて「死んでいる生き物」である本‐小説は「息を吹き返」し、生を謳歌し始める。本‐小説は生きものなのだ。
 そしてその本‐小説にまた何かを新たに付け加えることで、本‐小説とともに、人類は成長していくのだ。
 書かれた本‐小説は読まれ、読み返され、書き足されることを、つまり、「息を吹き返す」ことを待っているし、またそうすることで、読み書く人間も本‐小説とともに自由になるのだ。
 そしてそこに書かれるべき話は、性の解放による、自由な時間と、生の歓びだ。

 今日から物を買うと、税金が5パーセントかかる。早く新しい税金を払ってみたい、という欲望を抑え素早くジャージに着替えると、急いで一階へ行き朝食を作る。用意ができると、それらに全く手を付けることなく、さっさと外へ出る。まだ冬なので外気は凍るような寒さだ。この冷たさを突然、そのへんを歩いている知らない人に伝えたくなる時がある。そういう場合に男は、何の予告もなく通行人に襲いかかるのだ。無論、言葉などという物は誤解を生むだけなので、鈍器のように相手の身体にダメージを与えるような物を使った方がストレートにコミュニケートできるのだ。攻撃用の鈍器。男はそれを〈びっくり鈍器〉と呼ぶ。しかし、その日は不思議なことに通行人と出会うことはなかった。だから、道端に咲く植物たちがその犠牲になったのだ。そして結局、税金を払う機会がなかったのがとにかく残念だった。

 欲望というのは言語によって構成されるものである。そんなものは中原の小説では常に、感覚の下位におかれる。
 男は感覚的な歓喜に満ちた直感にのみしたがう。
 「冷たさ」という感覚を伝えたいという熱い思いと、「鈍器」で攻撃するという「ストレートなコミュニケーション」スキル、そしてその対象は人間ですらなく「植物たち」であるという、言葉を超えた非人称的な遭遇への挑戦。このようなコミュニケーションの充足感の前では、税金を払ってみたいという欲望の満足など、永遠にその機会が与えられることはないだろう。

『小公女の両親は、自分と口をきかなくなった息子のことを考えて四六時中、悲しい気持ちになっている。以前は野球のことや学校のこと等をよく話したものだったのに……。小公女はもう誰とも話をするこてゃなくなっていた。そのかわり、よくちんちんをいじった。そのいじっている音が、まるで小公女の独り言のように聞こえることもある、と両親は知人によく語った。』
 本を閉じ、またスイッチを押した後、「小公子はもうこのくらいにしよう」、と男は考えた。そして本棚に目をやると『小公女』がめに入った。男は別段ほもではなかったので、これからは『小公女』に手が入れられるのかと思うと熱い興奮が込み上げてきた。


 そしてライターは自分自身の感覚的な経験を「小公子」に伝達するために小説を描き足す。
 「小公子」はもはや、言語的なコミュニケーションに関心をもってはいない。そのことを両親が悲しもうが、そのような抑圧には屈しない。小公子は感覚に、性の歓びと孤独で自由な時間に没頭している。そしてライターは「熱い興奮」、この生の歓びと、小説の作る自由な時間の共有。つまり、本と人類の成長を共有するためにこのように書き足すのだ。
 ライターという職業とはこのように言語を超えた対話と言語による対話を同時におこなえるような、人類にとって貴重な存在なのだ。
 ところでライターにはこの男の外に、もう一組存在する。
 マリ&フィフィだ。
 彼らは一体何を何の為に書くのだろうか? 
 だが、その問いは『物語終了ののち、全員病死』の話者に対して発した方がいいだろう。
 冒頭、男はユーモアを追求する。

 連れ添った妻は死んじゃうし、家に泥棒は入るし、今年になって本当にいい事なしだ。
 こんな時こそ、人はユーモアを求める。仕事もなく、毎日ダラダラと生きているだけの生活と決別する為に、今日は早くから目を醒まし、ベッドから元気良く飛び起きた。
 ユーモアは人生の潤滑油ーーそんな言葉をどこかで読んで以来。俺はこの怠惰な日々を抜け出せたら、不幸な人々をユーモアで救おうと考えてた。勿論、無料で。


 ここにはやる気のなさも、陰気さも、私欲も、存在しない。この男は真の人間主義者だ。

 元気良く外に飛び出ると、早速、苦悩で今にも自殺してしまいそうな人を捜す為に走り出した。そんな時に限って、俺の感は冴えてすぐにそういう人を見付け出してしまう。家から五メートル位歩くと薬局があり、その隣には何故か専用の駐車場がある。沢山の薬を積んだトラックが止まっているのしか見たことがなく、日頃はただの空地になっている。
 その向かいの土地も何かの空地であることを思い出した俺は、好奇心のあまり、奇声を出しそうになるのを堪えた。

 「空地」という何の目的もない空間と、その空間から得られる無意味な連想によって純粋に社会的に無意味で無価値なまるで子供のような「好奇心」の固まりとなり、その興奮は言葉によって他者に伝達されることなく「奇声」として表出される。

 その空地では二人の若い女性が、キャッチボールをしている。
 学校のこと、友達の事や恋愛のこと等、いかにも若者らしい苦悩に満ちた会話を聞けるのを楽しみにしていたのに、二人は互いに口を開こうとしない。「ちぇっ、ダメだこいつら。言葉を知らねぇんじゃないのか。小学校からやり直せよ」と腹が立ったついでに唾を彼女たちのうちの一人(二人とも凡庸な顔をしており、両方とも背格好が大変似ている)に吐きかけてみた。するとその唾の冷たさによって、まるでスイッチが入ったかのように喋り始めたのである。


 男が彼女たちに吐きかけた「唾」は「奇声」に近いもので、感覚を直接伝達するための手段である。
 そして感覚的に「スイッチ」が入り、彼女たちとのコミュニケーションは成立し、「苦悩に満ちた会話」を喋り始める。

「あんなにうちに借金があったなんて……。本当に気が滅入るわね」
「家屋敷売って借金払っても、遺産どころか、私たちがこれから生きていくお金すら……」
 こんな時だからこそ、人はあたたかいユーモアを求めているに決まってる。なのに、俺の口からは何の言葉も彼女たち(恐らく姉妹)にかけてやることが出来なかったのである。


 男はかけてやる「唾」はもっているが「言葉」はもっていない。男は象徴的な水準で人と関係することはできないのである。

 朝早くから重い気分になった俺は、家で酒に浸りたい気分になった。しかし、グッと堪え、近所の本屋に行く事にした。ここに行けば、きっと何かいい考えが、何がしかの本に書いてあるにちがいないと考えたのだ。

 酒によって感覚に浸りたくなるのを「グッと堪え」、男は、人助けのためのユーモアを求めて本屋に向かう。

「ユーモア入門ねえ……しかも、ただ面白おかしい事がかいてあるだけの本じゃダメなんでしょ?」
 本屋の店主は眉間にしわを寄せて言った。
 「世でいうユーモアの八十%以上は、人のことをバカにしたりして笑う攻撃的なものばかりじゃないですか。僕が欲しいのは、そういうのじゃなくて、クヨクヨしている人たちの生きる糧になるような、そんなユーモアが自然と口から出てくる人間になりたいんです」
 店主は落ち着きはらった様子で、しばらくは無言だったが、五分後に急に会話が再開した。


 ここから突然、話者の関心が、本屋の店主に向かう。これは男が、あまりにも人助けに熱心になるあまり、「酒に浸りたい気分になった。しかし、グッと堪え」てしまったからだ。あまりにも人間的になり過ぎて、感覚の歓びを忘れてしまった男に話者は関心を失ったのだ。
 そして本屋は、「大変な赤字」と「棚の三分の一がスカスカ」という在庫不足を抱えており、「ユーモア入門」の在庫はこの店には存在しない。
 さらに話者の興味は「少々変わった考えに彼が取り憑かれている」という店主の「考え」に移行する。

 世界的な人口の増加と、この本屋のの在庫不足はあたかも反比例しているかのように思われた。この二つを解決する方法はないのか、客が全く訪れない店の中で彼は悩み続けた。しかし、答えは案外早く出たのである。  
 外を歩いている人間を、本に変えてしまえばいいのだ。

 これは、本が読まれ書かれることで、本と人間がともに成長していかねばならない、という店主の理想である。
 だが、「そんな都合のいい物ないかなぁなんてボンヤリと考えてばかりで他の事はなにもしなかった」ためにその本屋は「昭和五十七年六月二十日から、その本屋はずっとカーテンを閉め切ったままで二度と営業することはなかった」という。
 そしてここでまた、話者の関心が動きだす。これは、店主があまりにも怠惰すぎたためである。空想に耽ってばかりで人助けの情熱をもたない人間に話者は興味がないのだ。

 そこが書店であったことがウソのように、すでに一冊の本もそこにはない。そんな寂しい部屋で、久しぶりに人の声が聞こえた。
「ヘアスタイルの乱れなんて、大して気になんないわ」
 普段であれば髪のことが気になって仕方がないフリーライター志願の中年女性マリは、お好みの外国産タバコのおかげで、まったくイライラせずに仕事に専念できる。


 マリだ。彼女は他人の視線を気にもせずに、タバコの感触とその煙りの味に口と鼻の感覚を集中させている。 
 そしてフィフィが描写される。

 その他に居心地の悪過ぎる環境から彼女を守っているのは忠実なペット、プードルのフィフィ。マリ&フィフィそれがこのフリーライター・チームの名前だ。フィフィの犬ならではのイノセントなインスピレーションが、マリのクリエイティブなイメージを刺激する。極端な話、フィフィさえいればマリはジャンボジェット機だって操縦できる(ような気になれる)のだ。
 「そうそう、フィフィちゃんにゴハンあげないと」
 フィフィは普通のドッグフードも好きだが、マリの抜け毛やフケが一番の大好物。しかし執筆する時、マリは完全な絶食状態でないと仕事に専念できない。

 「フィフィの犬ならではのイノセントなインスピレーションが、マリのクリエイティブなイメージを刺激する」。あくまでも、人間より動物が上位におりイノセントなフィフィ(動物)こそインスピレーション(感覚)であり、それをマリがイメージ(視像)としてクリエイト(描写)する。
 だが、人間は動物に従属しているだけではなく、「フィフィは普通のドッグフードも好きだが、マリの抜け毛やフケが一番の大好物」であり、ここにはダイナミックで不可分な循環する存在の様態が見て取れる。この感覚と言語、動物と人間との間のエコロジカルなバランスこそが話者の求めていたものなのではないだろうか。

 こうして凸凹コンビが廃虚の中、十七日間で『ユーモア入門』を書き上げた。しかし、本屋も潰れて、読みたがってた客の連絡先も紛失してしまったので、やむなくその場に原稿を置いて帰った。
 未だ人に知られていない、気の利いたユーモラスな話。人々は無意識のうちに、そういった物をもとめている筈だ。


 マリ&フィフィが書いた『ユーモア入門』は、おそらく、感覚によって人生を自由にし人間とともに成長するような、そんな「イノセントなインスピレーション」と「クリエイティブなイメージ」に満ちた本であることは間違いない。
 ただ「面白おかしい事がかいてあるわけではなく、クヨクヨしてる人たちの生きる糧になるようなそんなユーモアが自然と口から出てくる人間」へと成長させる本。つまり『物語終了ののち、全員病死』するこの小説のようなユーモアが、人々が求めている、よりよい社会を創造する為の活力となるのだ、と話者は無根拠に読者(社会)の無意識に向けてそう断言しているのだ。

3 触媒の系列ーープロレタリアート‐役者‐幽霊

 触媒の系列の各存在は破壊と創造の化学変化、生成し、変転してゆくその過程の合間に、浸透する速度そのものとして時間と現実の支配に常に失敗しながら、とりあえずのもとのしての自らの存在を享受している。彼らは可塑性と可能性であり、不変の実体としての非‐存在であり、忘れてしまった昨日の夢の現実性のようなものである。
 触媒の系列を理解するには、つとむの生/死を追ってゆけばよい。つとむは過剰な何かであり、何かでしかなく、つとむはつとむでしかないことを半ば諦めながら、どこまでも自分を持て余している。
 つとむは『つとむよ不良大学の扉をたたけ』でスポーツ用品店の店主になり、『飛び出せ母子家庭』で役者になりペニスを自在に操り前衛的芝居で伝統社会を批判し、『あのつとむが死んだ』で幽霊として生と死の間に曖昧に存在しだす。 

3‐1 プロレタリアート

 『つとむよ不良大学の扉をたたけ』では、とりあえずのものとしての店主であるつとむの、ビジネスマンでも不良でもない曖昧なポジション、つまりプロレタリアート、その雇用者でありながらも不安定な存在の様態が描かれる。

 つとむは朝、自分の店に出勤する為に、店の鍵に乗ってゆく。無論、ポケットに入るような小さな鍵ではなく、巨大な鍵の形をした車に乗るのだ。それは見た目が鍵であるだけでなく、本当に店の鍵の役割をしている。車庫が言わば鍵穴となり、つとむが店に到着したと同時に開店となる。その店はスポーツ用品を売ることが商売だ。つとむはスポーツがからっきし駄目で、むしろ見るのが専門。別に運動神経が鈍いということではなく、スポーツそのものが本当に好きなせいで、どのスポーツをやればいいのか判らなくなってしまうのだ。そんなある日のこと……。

 冒頭、この話者は、車に乗って出勤し、鍵を開けて、店を開店する、という一連の行為、断片化した短期的エピソードを後から再構成して時系列順に線形的に並べる説話という行為を失敗する。
 話者の記憶は、それぞれが分離され連繋されたうえで圧縮し保存しておらず、混合したままで整理されていない行為記憶・視覚記憶を、後から言語だけで無理やり圧縮し描写している。
 これは身体‐情動の回路と言語野の連繋が、現前する感覚の充実によって誤作動を起こしていることによる。
 そしてつとむの「スポーツそのものが本当に好きなせいで、どのスポーツをやればいいのか判らなくなってしまう」という判断の不能。身体の躍動する歓びの感覚の充溢があまりにも強すぎるため、話者同様つとむの言語野と身体‐情動の回路が切れ、意識的な判断が成立しなくなっている。
 たしかにこれでは不良には程遠いだろう。つとむはなりそこねのスポーツマンでしかない。

 坂本のおっさんは今年五十三で、凄い醜い顔をした男だ。その次にこの男の特徴として挙げられるのは、強烈に臭い息だ。糞が沢山落ちているような牧場に、何百頭もの牛がしんだまま腐乱して放置されている状況を、つとむはこの悪臭を嗅ぐ度に思い浮かべて気分が悪くなる。そんな様を思わず連想してしいまうのには、立派な理由があるのだ。いつも坂本のおっさんが店にやってきて、下らなくそしてこの上なく下品な話につき合わされるのは、決まって午後二時頃。バイトを昼メシに行かせ、店長のつとむ自らレジに入る時間を狙ってやってくる。余程、この男はつとむと話をするのが好きらしい。話の下らなさだけでも十分に苦痛なのに、その上に臭い息を体中(特に顔面)に吹きかけられたのではたまったものじゃない(その息のせいでつとむは、食欲も性欲も以前より低下した)。だから、坂本のおっさんの口が開くのと同時に、顔をレジ脇の壁の方へそむける癖が付いてしまった。壁にはアメリカの牧場を撮った写真が貼ってあり、そのせいで例の連想をしてしまうのだ。無論、その写真は普通の牧場写真で、牛の死体は一切写っていない。

 つとむの鼻から入る「強烈な臭い息」が、目から入る「普通の牧場の写真」を凌駕し、腐臭と死臭に満ちた凄惨な牧場を現前させる。
 この「強烈に臭い息」につとむの身体は完全に蹂躙され感覚に受動化しはじめ動きを止めるのに対し、「坂本のおっさん」に対する憎悪は増幅し暴走してゆく。

「おい俺をバカにしてるのかよ! 何か返事をしろ! おい!」
 ずっと何も答えず、ただ壁の写真を見つめるだけのつとむの態度に、坂本のおっさんは激怒した。
 しかし、つとむはただアメリカの牧場写真を見つめて黙ることしか出来なかった。特に写真の右上の方にある、サイロを凝視した。


 つとむの耳は、言葉(意味)どころか声‐叫び(音)に対しても無感覚になり、口もその動きを止める。
 鼻と目だけが作動しているが、目は鼻に従属し、鼻は「悪臭」と一体化している。
 しかし身体運動を止めているにしても、それは表層的な水準で、実際には「強烈な臭い息」に感染し憎悪によって応戦する、その生の歓びにつとむの鼻の粘膜と気分は、微動だもせずに歓びに打ち震えているのだ。
 つまりここで、匂いの分子と鼻の粘膜の受容体の結合による微細な振動を言語が無意識内で追跡しているのだ。
 おくびにも出さない「坂本のおっさん」に対する憎悪は健康的で闊達な気分なのであり、そして「坂本のおっさん」が「つとむと話をするのが好き」なのは、つとむとなら言葉を超えた対話が可能であることを、彼は感覚的に知っているからだ。これは根源的で無意識的なコミュニケーションなのであり、視覚的には、一方は怒鳴り、もう一方は無視しているにしても、より深い領域で二人は互いを受容しあっている。
 さらにここでの、つとむの触媒としての変化のなさと「坂本のおっさん」のルンペン的な悪臭と動物的な攻撃性への生成変化の対比は注目に値する。
 そしてこの後、つとむはやる気を漲らせはじめ、金勘定に正確な「バイトたちの優秀さに感動」(これは彼らの社会人としての誠実さに対する感動である)し、「しかし、いつまでも優秀なバイトたちに頼る訳にはいかない。学のない俺だが、やる気だけは十分すぎるくらいある。今から勉強して、頭が良くなればよりいい商売ができるにちがいない」と、つとむは大学に入学する決意を固める。

 次の日、朝八時に起きて近所の大学へ行った。願書を取りに行って、その後、受験。そして合格。やがて入学式。その日の為に、つとむは立派な背広を作った。巨大な背広を。
 大部分は人間の皮膚で作られており、材料集めの為にJ・リーグを見に来たバカ共を皆殺しにした。一発に百万本の鋭い針の入った特殊な爆弾だ。たった一個で三千人を殺傷できる恐ろしい兵器をサッカー・ボールに忍ばせた(スポーツ用品店をやってれば、それ位は簡単だ)。そしてJ・リーグの観客は全員死に、何とかつとむは立派な背広を手に入れたのだ。
「死体で出来てる背広だから、死臭プンプンだし、他のクラスメートに嫌われるかな、って思ってたけど、他の子たちもやっぱり死体で出来た背広とかドレスとか着てたから、逆に皆と同化できたって感じ」
 しかし、その後に些細なことで孤立し、三カ月目には学校を自主退学せざるを得なかった。

 大学に入り、刻苦勉励に励んで良い商売をする、という(世間的に)前向きなライフコースは、感覚の現前によるいきいきとした身体の回復といったような生のありかたからはほど遠く、言語的意識的に構成され欲望に支配された社会では「死臭プンプン」な、感覚が完全に死んだ死体のような身体しかもてない。しかし、つとむもそのような皆と同じ「立派な背広」を着れば周囲と同化できる。
 だが、躍動する身体をもったつとむは当然「しかし、その後に些細なことで孤立し、三カ月目には学校を自主退学せざるを得なかった」だろう。生者が死者と同化することなどそもそもが不可能なことだったのだ。つとむは道を誤ったというべきだろう。
 だからつとむは、「不良大学の扉をたた」くべきなのだ。つとむが入学するべきなのは、自分自身として生きられる不良大学なのだ。無‐目的に勤行に励むだけの品行方正な商売人を養成するだけの大学は、つとむには必要ないのであり、つとむの「やる気」は大学生に成ることではなく不良に成るためのものなのだと、話者は破壊の系列へとつとむを勧誘する。
 しかし、たしかにつとむは「J・リーグを見に来たバカ共を皆殺しに」するなどの凶暴な一面ももっているので不良になる素養もあるのだろうが、つとむは動力、運動因としての「やる気」そのものとしての存在なので、不良という断固とした破壊的精神も、ビジネスマンとして確固とした倫理的精神ももたず、もたざるものとしてのプロレタリアートとしてあらゆる職種を転々と漂流するだろう。話者の説得すら、つとむという存在は無視できるのだ。

3‐2 役者

 役者という職業の精神を知るために、さらにつとむの問わず語りに耳を傾けていこう。
 『とび出せ母子家庭』では、母子家庭を飛び出して「あこがれのアングラ演劇」の役者となったつとむが、あてもなく歩き回り、喋りまくる。
 真っ赤な字で白地に『昭和三十八年三月ニ十一日 広沢英三と妻 典子 刺殺による出血多量死』と書かれた看板が、木造の家の屋根に掲げられている。それは酒屋か何かの商売をしている家に見えるのだが、どこからどう見ても普通の一軒屋だ。
 目から入る家屋と、耳から入る過去にここで起こったこと(事件)が、圧縮されて叙述される。眼前の現在と言葉で記録された過去が、一体化して感覚的に一挙に捉えられる。
 この身体感覚。やはりつとむは何も変わっていないようだ。

 表札から視点を移動し、再び看板を見る。真っ赤な文字は、家主が刺し殺された時に流れた血で書かれたのかもしれない。しかし、よく考えてみるとペンキのような血などある訳がない。これは血ではなく、ただの赤いペンキだ。もしかすると本物の血液が混ざった
ペンキなのかもしれないが、はたしてそんなペンキが使いものになるのか?


 そして、眼前の「真っ赤な文字」は過去の「家主が刺し殺された時に流れた血」と混合され、言葉(意味)ともの(血液)が一体となり、目から入る。この感覚の現前に意識も身体も従わされる。

 何かが起こるかも、という期待をして十分程その家の前で立っていた。ベルを鳴らす勇気は全くないし、もしも血まみれの広沢夫妻が出てきたら困るので、何もせずただじっと家の前で立っているしかなす術はなかった。暫くすると何となく考えごとを始めていた。

 つとむは、感覚に釘付けになり、時間を失い、殺されてもうこの世にはいないはずの「広沢夫妻」の出現の可能性に「困」っている。
 だが、このつとむの困惑は本当に錯誤なのだろうか?
 つとむは感覚に引きずられたまま考えごとを始める。それは、この地球上で過去に強烈な絶望を感じながら死んでいった幾多の人間のことであり、そして、そんな死の現場が眼前に再現される様だ。

 もしそんな死の現場が、蝋人形として全世界のそれぞれの場所で再現されることがあれば、この世界はどうなってしまうのだろうか。それは蝋人形に見えるが実は本物で、動きは機械のように無感情に動いているが本当の痛み、苦しみを感じながら永久にそこに存在し続けるのだ。
 どんな場所に引っ越しても無駄だ。日当たりのいい、明るい部屋でも一度はそこで誰かが自殺した筈。そんな地獄のような世界で、我々は生活しなければならない時がやってくるのかもしれない」
 本当に嫌な気分になって、飯島つとむはその家の前を立ち去った。窓の奥の闇から、誰かがこちらを見ているような気がして恐ろしくなった。


 「死の現場が、蝋人形として全世界のそれぞれの場所で再現されること」というのは、たとえば前述の「広沢夫妻」の家のことだ。
 感覚の世界は時間をもたないので、そこで感得された存在の刻印は永久に再現されつづける。「そんな地獄のような世界」がつとむの存在する世界で、そこ「感覚の世界」では原理上生きることも死ぬことも叶わない。
 そしてつとむは「嫌な気分になって」「家の前を立ち去った」後に、「窓の奥の闇から、誰かがこちらを見ているような気がして恐ろしくなった」という。窓の前から立ち去った後なのに、目の感覚だけは「窓の奥の闇」と不可分になっている。つとむの諸感覚と気分は時間と共に寸断されている。それでは、仮に「広沢夫妻」の目の感覚と時間も通常の時間と身体から切り離されていたとしたら、窓の奥からつとむを見ていたのは現実の死んだはずの「広沢夫妻」なのだろうか。
 つとむはバスに乗り役者生命が掛かった明日の芝居のことを考え、役者としての初心を思い出す。 

 どんな人間でも知らないうちに様々な現存在から様々な形態の恩恵を受けて、一人前に成長していくものだ。だから死の直前までに、何とかその借りを返したい。返したいと思うのは簡単だが、実際には大変難しいことなのだ。もし借りたのが金であれば、そっくりその額を返せばいいと言うかもしれない。しかし、それは単に借りた金銭を返却しただけのことに過ぎないのではないだろうか。金に困窮した自分を助けてくれた借りは、本当の意味で金では返せない。だからその借りを、俺は心のこもった芝居で返すのだ。
 そんな俺の芝居を『田舎芝居』と呼んで酷評する輩は絶対に許せない。確かに俺の芝居はかた苦しい伝統的な芝居とは相反するものだ。

「どんな人間でも知らないうちに様々な現存在から様々な形態の恩恵を受けて」とは、人間は他の人間と様々な感覚の共振による相互性の中で生と死の不‐可能性を過ごしており、その共感は時空、つまり資本の力を超えているので、資本の蓄積以外の仕方で不在の神にではなく、他の「現存在」に振動を送り返してやらねばならないということだ。 

 故郷に居た頃の俺は、伝統の呪縛から逃れる為に、地元の連中から誤解の目で見られるような異端な行動をしていた。頭の通る位の穴と、もう一つ小さな穴のあいた板を用意し、寝っ転がってその穴に頭とペニスを通して、それで芝居を上演した。頭部とペニスによる二人芝居だ。ペニスはどんな役者でも出来ない特殊な芝居が可能だ。初めは子供だったのが徐々に大人に成長し、やがてシワシワの老人になってクタばる。そんな台本にはうってつけの役だ。ポルノ男優でもないのにペニスを自由にコントロールするのは、まさに至難の技だ。

 神=資本=言語に捧げられることのない劇はいかなる意味でも「田舎芝居」であるはずがなく、「伝統的な社会」からは理解されることはないだろう。
 つとむの芝居は、他者の視線(意識)とファルスから切り離された性(ペニス)と生の解放が演じられる。性の歓びによってのみ人間の一生が演じられる、この感覚的な芝居は、村的な人間関係(視線)によって性欲と生が縛られる田舎者には、誤解しか産まないだろう。
 新進の役者として因習と過去に拘束されない、純粋な性の歓びによって生きる自由な人間が一人前に成長してゆく様を演じるのは、「まさに至難の技だろう」。
 このような自由な歓びに満ちた心のこもった芝居は、だから、田舎芝居ではありえないのだ。
 そして、このような芝居で、伝統社会を壊乱し、都市の市民の身体と秩序を構築する、憑依と天声を呼び込む身体をもつつとむは、もはや死ぬことすら許されないだろう。

3‐3 幽霊

 生や死は曖昧なもので、有機体の有機的な統一が失われたからといって、その生物の送受信していた振動は外をもたないこの無限の宇宙の中での旅を止めることはない。感受性さえあれば、時空を超えてつとむの存在は感覚できるだろう。

 『あのつとむが死んだ』の冒頭、友人つとむの死を、話者がひとしきり悲嘆するが、次第に哀惜という感情を超えた黙祷という感覚を実感し始める。

 もうつとむの話なんかよそう。もうあいつは死んだ。二度と会うことはなく、話すこともないだろう。悲しいことだが……。
 最近は生きることの苦しさばかりが身にしみる。生きているうちに、つとむにいい思いをさせてやりたかった。畜生……。
 悲しい。悲しすぎる……。今はただ沈黙したいだけだ。
 そんな時は何も考えず散歩するに限る。公園でボーッとするのはなおさら良いことだ。


 友人であるつとむの死に直面した話者は、その悲しみ、苦しさに対して、「ただ沈黙したいだけだ」と黙祷という感覚の必要性を語る。
 話者の言語と身体は、黙祷の感覚に従わねばならない。死者を黙祷せねばならないという社会通念のゆえに黙祷という行為をするのではなく、黙祷という感覚が社会/世界を構築するのだ。
 だが、死者を黙祷したいという内発的な感覚を、他者に言語で伝えることは可能なのだろうか?
 この話者の黙祷の仕方とは「公園でボーッと」することだ。

 ボーッとしながらベンチで様々な人々が通り過ぎて行くのを見つめていると、なんとなくいい気分になってくるものだ。世の中の全ての人が週に一回でもいいから、こうやって公園のベンチでのんびりすればきっと人々が憎み合ったり、戦争が起きたりしないのにと考える。今度、国連が開かれる時には絶対出席してそれを皆の前で発表してやるんだ。 

 
話者は私欲を超えて、全世界の惨劇の犠牲者ために黙祷する。
 男が「いい気分」になり、口は黙祷の言葉なき言葉を発し、感覚に没入し沈潜すると、感覚の世界が開けてくる。

 そんなことを頭の中でブツブツと言いながら空を見つめていると、突然電流のようなものが体を流れるのが感じられた。一瞬、目の前がまっ暗になったかと思うと次の瞬間にはもうフラッシュをたいた時のように、目がくらんだ。そして万年筆のインクを飲んだようなマズくて苦い味が口の中で広がった。どこからともなく様々な人々の声が聞こえてくる。

 目と口と耳が時空を超えた感覚の世界に埋没すると、そこでは死‐生者の声なき声が聞こえてくる。
 そしてさらに鼻の感覚が起動し始め、そのいきいきとした感覚によって男はつとむに再会する。 

 その時だった。急に風が匂い、いきいきとどこかの地方都市の上空から見た風景が見えた。これは何かの超能力なのか? と考えたが一体何なのか自分でもよく判らない。その地方都市の公園のベンチで、つとむがうまそうに弁当を喰っているのが見えてきた。
「なんだ、まだつとむは生きてるじゃないか、落ち込むことはないぞ!」
 なんだか自分の中で元気な力が甦ってくるのが感じられた。

 「元気な力がよみがえってくるのが感じられた」のは、つとむの姿を目から入れて、その「うまそうに弁当を喰っている」姿、食の歓びという口の感覚と公園のベンチで「ボーッと」平和を感覚している、そのつとむの相変わらずの様子とこの話者の存在が夢の中で共振したからだ。
 すると、このつとむの触媒としての存在と感応した若者(不良)たちが、この感覚によって開示された世界に顕現する。

 するとベンチの脇の茂みから五、六人の若者たち(十代前半と思われる)が鉄パイプを手にして現れた。一見して、この若者たちにはフレッシュ・ジェネレーションという名称がふさわしいと感じた。リーダー格の男の合図で一斉に鉄パイプがつとむに降り降ろされた。そして一瞬で血だるまに……。この時代のときめきを代表するような若者たちの登場に拍手をおくりたい。

 このいきいきとした(「フレッシュ」な)破壊の系列に属する不良たちは、ルンペン‐動物へと落下するためにスティックと成り破壊活動を行っているのであり、彼らの暴力に罪はない。
 幽霊であるつとむは触媒としてドラムに成り、彼らに殴打され、躍動する身体への運動因として生と死、社会と世界、存在と非存在、法と無法の間で、ただサウンドがゆらめいているのだ。
 しかし、このつとむの苦痛は、人間のあらゆる罪を引き受けてのことなのだろうか?
 つまり、つとむに無意味に、理不尽に、降り掛かるこの災厄はあらゆるアクシデントに対する問いかけとして上演される、悲劇でしかないのだろうか? つとむとは父なのか? 神なのか? 
 そうではない。つとむはつとむだ。「優しかったあいつ」「愚かなあいつ」「純真なあいつ」そんな風に友人から追悼されるやつ。それがつとむだ。
 つとむとはそんな男であるからこそ、この話者は、その死に黙祷を捧げる。つまり、つとむはこの男の黙祷という感覚の運動因でもあり、つとむの幽霊という媒介者がいるからこそ、この男は、黙祷という感覚によって世界を捉え、そしてさらにここで拍手という手の動きを生んだのだ。
 この目と耳と鼻のどれと結びついているのか、破壊への賞賛と言う感情とつながっているのかも、悲劇の終幕に対する儀礼的な感情とつながっているのかも、誰にもわからない、手の動き、この、ばらばらに起動している目と耳と鼻と手の感覚への没入は、どんな意味も語らず、この手を叩く感覚的な動きは意味的に沈黙し、黙祷しているといえるだろう。
 拍手が、時間の変化と空間の分離を、生と死の閾を、手と自己意識の決別を、つまり、手を音によって、道具としての身体から切り離し、たんなるものとしての宇宙に手を返却する。そして獲得された非人称の手の動きが、リズムを構成し宇宙に楽天的な霊感を流出するのだ。

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