憧れだった大学に勝手に寄付してみる(1)
服部みれいさんおすすめの、スーザン・フォワード著『毒になる親』をきっかけに、じぶんの中の子ども、インナーチャイルドのいのちが渾々と湧き出しているわたし。
そんな自分の内側の声へのとびらをぱかーんと開いた状態で過ごしていると、ふと、自分が今まで何度も繰り返し「2度目の大学受験をする夢」を見ていることに、気づいた。
わたしは高校時代、ものすごく憧れている大学の学部があり、そこ1本を目指して勉強していた。けれども学力が足りず断念し、手堅い地元の大学を選んで手堅く合格した。
どうやらインナーチャイルドは、わたしの顕在意識が把握している以上に、そのことを《根にもっている》ようなのだ。そして、冒険してその憧れの大学を受験することがはばかられた環境、つまり親の視線に対して、恨めしい気持ちを抱えつづけている。
「2度目の大学受験をする夢」の正体は、それのようだ。
なるほろね、と合点して、「わかったわかった、ではちょっとその大学に行ってみようじゃないか」と、インナーチャイルドとともに憧れていた大学のウェブサイトを訪れてみた。
わたしの憧れていた学部…これかな?ううむ…みた感じ、今や大した魅力を感じない。というか、わたしが行った大学と、大して変わらなそうだ。
というかというか…大人になった今、何よりじぶんが「せいかつする」ことの営みの中に、せかいのすべて、宇宙のすべてが入っていて、そこからあらゆることを学び、「じぶん」を生きることができる、そういう智慧が、わたしの中にある。
だから、今考えればわたしにとっては、大学なんて、どこに行っても、変わんないや。というか、腰の重いわたしには、大学なんて行かずに海外を放浪したりしたほうが、ずっとずっとじぶんを磨くじかんになっただろう。いやいやもう、ほんとうは、特にこれからの時代、どんなかたちでだって世界と繋がれるし、いつ、どんな瞬間だって、《学び》なのだ。その人の、「意識」が目覚めているか、否か、ただ、それだけの問題。
そんなことを、インナーチャイルドとのキャンパスデートで、確認した。そして、記憶を、塗り替えた。
つづく。