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第13回 シェ・イノ 京橋

あけましておめでとうございます。
頑張っておられる飲食店の皆様と、まだまだ暴飲暴食に耐えられる健康な体のおかげで、「大人の食べ歩き 第三章」を一年間続けることができました。ぼくの体力と胃袋が限界を迎えるまで、書くことができればと思っています。
 
2022年、日本のレストランシーンで最もセンセーショナルだったトピックスは、和歌山にある「オテル・ド・ヨシノ」の手島純也シェフの「シェ・イノ」への移籍ではないだろうか。移籍という表現がここでふさわしいかどうかは別として、エンゼルスの大谷翔平がニューヨークヤンキースに移ったぐらいの大事件だが、移籍が当たり前のメジャーリーグと違い、飲食業界ではさらに青天の霹靂と言ってもいいぐらいまれなことだ。
 
直後の手島シェフは、創業者・井上旭氏の薫陶を受けた御大古賀シェフの元で、「シェ・イノ」の王道レシピを忠実に再現しているに違いないと拝察。海にも山にも近く自然に囲まれた土地でのレストランにて、仕入れには大変な苦労をされたに違いないが、地元の素材を自分のものとして逆に全国に発信するまで昇華させるに至った手島シェフ。素材のほとんどすべてを、流通という別の人間に委ねなければならない東京で、そのジレンマをどのように解放していくのか。料理人としての高い技量や創造力はもうすでに完成されているのだから、これからの勝負はそこかもしれないと考えた。例えば、ぼくの中での手島シェフは「パイ包み」の名手として強く刻まれている。では、彼が『シェ・イノ』で30年近く続いているスペシャリテ「仔羊のパイ包み焼き“マリア カラス風”」を、文字通りどう料理するのかなど、いろいろと思いを巡らせながら京橋の店に急いだ。 
 
ところで、もう20年以上前の話だが、ぼくは2021年11月に逝去された井上旭シェフを、ニューヨークのレストラン『ジャン・ジョルジュ』でお見かけしたことがあった。椅子のうえにあぐらをかいて座り、一人ワインを飲みつつ、スタッフとフランス語で話をされていた。どこから見ても彼はこの店のオーナーだろうと他の客に感じさせるオーラがあった。今回『シェ・イノ』を訪れるのは、その時日本に戻ってすぐに行って以来かもしれない。
 
ぼくの記憶の中では、いちソムリエだった伊東賢児さんは、現在『シェ・イノ』の社長である。といっても、陣頭でサービスの指揮を取り、常に低姿勢ですべてのテーブルへのウオッチを怠らない。ああそうかと勝手に納得し「伊東さんが、手島シェフを和歌山から引っ張ったんですね」と伊東社長に問うと、「ご自身の後継者として、古賀シェフ自ら動かれたんですよ」との回答。先ほどのメジャーリーグの話ではないが監督自身が動いたことになる。手島シェフは果報者に違いないが、たいていは独立開業へと動くのが一般的なので、『シェ・イノ』という暖簾を継承するとの決断は大変だっただろう。というか、日本のフランス料理業界でも暖簾が守られる時代になったということか。
 
スペシャリテ「舌平目のブレゼ “アルベール風”」も「仔羊のパイ包み焼き“マリア カラス風”」も、極めて飾りを取り払った皿である。和歌山時代、手島シェフは自分の料理は「映えない」のでと笑って言っていたが、それよりもはるかに映えない。すると通常よりさらに五感や記憶をフルに動かして、目前の料理とすり合わせようとする自分に気づく。愉しい、そして過去の経験にある優れた料理も、そのおいしい部分だけが抜き出され脳に刻まれていたことを改めて知る。
 
この悦楽を、これから手島シェフがどのように紐解いて、彼のシェ・イノとして東京の食通に届けていくのか。希望と可能性は無限なのだ。食事の後半、対照的な色のコックコートを着た、古賀シェフと手島シェフが揃って挨拶に来られた。古賀シェフに対し素直に「ぼくは手島シェフの料理が大好きなんですよ」と伝えた瞬間、古賀シェフの目が少し潤んだような気がした。
 
シェ・イノ
東京都中央区京橋2-4-16 明治京橋ビル1階
03-3274-2020
 
 

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