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「島で仕事を作ってほしい。」全国から若者が集まる島で生まれた若者。

島生まれ島育ち。地元が無くなってほしくない。島で仕事を作りたい。
でも、自分の中での幹の部分は、まだ見えてないです。



窓口で働く井筒さん

ーー今年の5月から海士町役場 住民生活課で勤務している井筒 翔太(いつつ しょうた)さん。隠岐島前高校を卒業後、約8年間を島外で過ごした井筒さんが海士町に戻ってきた経緯や、井筒さんの島に対する思いを伺いました。



島で生まれ、島で育ちました。

小中高と海士町で過ごした後、県内の大学へ。大学卒業後は東京のIT系の企業に就職したといいます。ーー

井筒さん:
幼少期はすぐに手の出るヤンチャな少年でした。でも小学校2年生の時に島の中で転校したんですけど、転校した先の小学校が結構大人しい子が多くて、最初はちょっと浮いてましたね。そこから徐々に穏やかになりつつ、時にはヤンチャなハイブリッドになっていきました(笑)

幼い頃の井筒さん

この頃は島の暮らしに夢中で、島の外に意識が向いたりはしなかったです。
この生活が純粋に楽しいなと思っていました。

でも中学生になって島外での生活は少し考えました。高校を島内で過ごすか、本土の高校に行くかで迷っていて。最初は本土の高校に進学しようと考えていました。当時の島前高校は、今みたいな島留学とかがない頃で、生徒数が少なくてあまりいいイメージは持っていなかったんです。ですが、島前高校に進学しました。

それは、町が魅力化に向けて動き出したことを知ったので。


「島前高校、生まれ変わるらしいよ」


中学3年生の時にこの話を聞きました。

魅力化という言葉もその頃から聞き始めて、活気付かせようと大人たちがめちゃくちゃ頑張っていることとか、海士じゃないとできないようなことを島で体験しながら、大学に行けるように塾を作る動きがあることとか。

魅力化の話を知らなかったら本土の高校に行っていたと思います。

地元が変わろとしている動きを知って、自分はその恩恵を受けることができるんじゃないかなって。あとはただ学ぶだけじゃなくて、海士町でしか学べないことを学びつつ、勉強もしつつということができたら最高だなと思ったので島前高校にしました。

もともと1クラスだったのが地域創造系のコースができ、僕が通っている頃に2クラス化が実現したので、目に見える形で明らかに変わっていましたね。
僕が島前高校にいる時がちょうどV字回復の起点だったんですよ。

高校時代はソフトテニス部で今も続けているそう

高校卒業後は大学進学のために一旦島を出ました。卒業後も本土で就職して生活していましたけど、その間も海士への気持ちはありました。

大学は松江、就職してからは東京での生活だったんですけど、そのまま東京に住み続けようとは思わなかったですね。

採用は島根だったんですけど、研修のために東京へ。東京では4年間住んでいたんですけど、新型コロナウイルスの影響で仕事は完全にテレワークでした。
そんな中去年、テレワークだから地元に戻って仕事をしてもいいという動きが会社の中であって、きっかけを作るという意味で自分に声をかけてもらったので、海士町に戻ってきました。

戻ってから1年間はテレワークをしながら、地元のイベントやソフトボール大会に参加していました。そのときに、「そろそろ役場の募集がはじまるよ」という声をかけてもらって。高校の時から海士町で仕事がしたいという思いがあったので、応募して、採用していただいて、今ここにいるという状況ですね。

当時は悩みましたね。前職の会社でもすごくよくしてもらったので。でも、悩んでいたら海士町がなくなっちゃう。自分がこれだと思った仕事を見つけても、なくなってしまったら意味ないじゃないですか。


ずっと心に残っている言葉が。

海士町で仕事がしたいというのはあったんですけど、
未だによくはわかっていないんですよね。

中学生のときに山内前町長とお話しする機会があって、そこでの言葉が胸には残っていて、

「海士で仕事を作るために島に帰ってきて欲しい」

この言葉を言われてから、島で働くことに意識が芽生えました。

「将来働くなら島で働きたい」って考えるようになりましたし、
「島がなくなってほしくない」という思いもありますね。

山内前町長の言葉もありますし、高校の時に大学に進学できるような教育を自分たちが受けられるように頑張ってくれていた大人たちを見ていたので、そういう大人になりたいというのも多分あるとは思うんですけど、未だにわからないですね(笑)

でも不思議なのが、「絶対に島に戻ってくるんだ」とは思っていました。

ただ、もうちょっと後に戻ってきたかったなとも思います。
僕は結構あんまり考えずに流れで生活しちゃうことが多いので、
「これだ!」
というものを見つけてから島に戻りたかったですね。

だから島に戻る時は複雑でした。自分の島に戻りたいという気持ちと、何かを見つけてから島に帰りたかったという気持ちとがあったので。


地元で仕事に就いて

でも、島に帰ってきた今は、目の前の与えられた仕事をこなすことに一生懸命になってます。

役場で勤務し始めたのが今年の5月からなので、まだ慣れないことも多くて。いろんな人に迷惑をかけちゃっているなと感じるので、まずは慣れることを頑張ります。

いつかは、自分で「これをやりたい!」って思えるものを見つけて本気で頑張れるようになりたいです。

帰ってくるとやっぱり地元はいいなって思いますね。
僕は海士町の自然とか好きなんですけど、イベントが多いところや地域性も好きで。

ソフトボール大会とか盆踊り大会とか色々なイベントがあって、シンプルに楽しいですけど、自分がすぐに楽しませる側になれるのが好きで。
そんな簡単に運営側に入れることってそうそうないと思うんですけど、海士町だとすぐに声をかけて誘ってもらえて運営側になれる。
今日だってインタビューが終わった後、盆踊りの店の手伝いに行きますもん(笑)

こういう手伝いとかを通していろんな人と触れ合えたり、あとは実際に運営側にならないとわからないことっていっぱいあるじゃないですか。
そういうのを学べるところも好きですね。そこから参加者になった時にこれ大変だから、こういうことしてあげようとか考えられるようにもなるし。

楽しいなって思いますね。何か登場人物になってるみたいで。

あとは気軽に誘ってもらえるところも好き。僕は割と受け身で、誘ってもらえると参加しやすいので結構うれしいですね。なかなか他の地域だと自分から声をかけていかないとそういう機会に出会えないじゃないですか。

でも海士だと、イベントに参加させてもらえる機会は常にもらっている感じです。


島の自然に囲まれて育った

家の前が海なので、波の音は落ち着きますね。本土で過ごして帰ってくると、自然の中で暮らしてる方がリラックスできるなとは感じます。

海士町は島前地域の中でも唯一お米が取れて、森とかの陸の自然も豊かです。

子供の頃は森とかで遊んでいましたけど、今は虫嫌いで(笑)
かといって海潜れるとかでもないので、体験するってよりかは音聞いたり、海見たり。感じる方が好きです。

周りが自然で溢れているから、自分と向き合う機会が多いのかなとは思いますね。



自分と向き合えるけど、1人の時間は少ない

1人で振り返って自分と向き合うこともあれば、他人といる時に振り返ることもあります。

飲み会とかで、「今何してるの?」から始まって、「この先はどうするの?」みたいな話に自然となる。そこで、考え直すし、その場で別の人の話を参考にすることもできる。「こういうことがしたい!」という人がいたら、自分もチャレンジしてみたい気持ちになるし。
参考にもなって、他人から刺激をもらえる機会も多いですね。

自分で内省する機会も多い印象なんで、自分探しには向いてると思います。

でも、島外にいる頃と比べて1人の時間は減りましたね。

さっきの話にもあったんですけど、誘ってもらえることが多いんですよ。

だから、ゆっくりしたいなって時もあるんですけど、声かけてもらったら行こうって気持ちになりますね。行ったら楽しいじゃないですか(笑)
なので、1人よりも誰かといる時間の方が多いかなって思います。

でも、1人の時間が少ないからこそ「夜遅くまで電気がついていたけど寝れてる?」と聞かれることが監視されているみたいで嫌だと感じる人もなかにはいて。嫌な人は嫌だと思うんですけど、僕は心配してくれているとかそういう捉え方もできるなと思っています。

島の暮らしは距離で言うと常に誰かと暮らしている感じ。
数的なもので言えば、都会とかの方が圧倒的には多いけど、
人と心の距離はどこよりも近い気がします。

その都会よりも近い距離感も窮屈じゃない。全然居心地悪くないですね。まぁ、感じ方は人それぞれですけど。


島に対する思いはやっぱり…

何度も言うようですけど、島はなくなって欲しくないです。
それが一番ですね。やっぱり自分が育ってきたところだから。

でも、単純に人が増えて欲しいかと言われるとそうでもないんですよ。

自分のように島で生まれ育った人が、いずれ帰ってくるといいなとは思います。
だから、なくならないために、自分ができることがあったらやりたいなというのを常に考えて生きていきたいなと思いますね。


(R6年度大人の島体験生:ふの)

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