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雨上がりの墓参り、『まだまだ死ねない』スタンスで人生頑張ってみようと思う。
有給で取った夏休みは雨が続いた。
雨じゃなかろうと、遠出はしない予定だったけど。
お盆なんだし、お墓参りくらいしたかった。
今日の夕方になってようやく雨がおさまった。
お盆になって、死んだ人たちが精霊馬に乗ってやってきて、帰っていく。
まばたきの間の、死者との邂逅。
私は毎年、地元の、母方の実家に線香をあげに行っていた。
母方の祖父は私が物心ついてすぐに亡くなった。
父方の祖父も10年以上前に亡くなった。
なので、お祖父ちゃんの武勇伝みたいなのは全然知らない。
社会人になって、働いていた祖父たちの別の側面が気になるようになったかもしれない。
ちょっとは私も成長したのかな。まだまだ未熟者ですが。
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記憶もだいぶ薄れているけれど、大事にされていたという思い出は残っている。
忘れられないし、忘れようとしないのはきっとそのためだと信じている。
父方の祖父が亡くなったとき、私は訳も分からずぼろぼろ泣いていた。
あれはきっと、身近な人がなくなる、ということをより鮮明に感じたからだ。
当たり前だったものが当たり前じゃなくなるとき、おもむろに喪失感が芽生える。
一年前まで温かかった手が、冷たくて固い。
それでも太陽は回っている。たった一人の死で世界は止まってくれやしない。
その無情さもあったから、泣いてしまったのかもしれない。
母方の祖父の死は、身近にある、という感覚がなかったのだろう。
数少ない記憶のなかで生きている母方の祖父は、あまり笑っていなかった。
でも、私がその当時の祖父の飼い犬に噛まれたとき、すぐに犬を引っ剥がしてくれたのは覚えている。
彼は、遺影の中ではちゃんと爽やかに笑っている。
母の実家を尋ねて、仏壇にお線香をあげるとき、きまって祖父の遺影を見上げる。
両手を合わせて目を瞑り、近況報告。
何かの節目には欠かさず仏壇の前で手を合わせた。
そして、遺影を見上げて、もうちょっとだけ頑張ってみます、と意気込んでみる。
心がずたずたで消えてしまいたくなっても、祖父の爽やかな笑顔に悲しい涙が流れてほしくないから。
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お盆が終わった。
私は今日は、仏壇ではなくお墓で線香の火をともした。
いつもどおり、近況報告と、もうちょっとだけ頑張る、という意気込みだけ残した。
振り返れば、墓石が碁盤の目のように並んでいる。
人は必ず死ぬ。
生きることは難しい。
人と心を通わせるのはつかれることも、傷つくことも多い。
死にたいという悲鳴は、『消えてしまいたい』という願いだ。
ときに、その願いを叶えてしまう人もいる。
身近だった人がそのようにいなくなってしまうと、やりきれない気持ちになる。
死んだって時間は流れていく。
たった一人が消えても、何も起こりやしない。
あるのは悲しみだ。
でも、親類でない限り、身近な人は血の繋がらない赤の他人だ。
記憶は薄れていく。
残るのは、独りで消えてしまったという単純な記憶だけ。
私が死んで悲しむ人がいるなら生きる、というような自惚れを吐く気はない。
いっそ私が死んで悲しむのは私だと開き直っているくらいだ。
自己愛は低迷中だけどちょっとでも自分が好きになれればいい。
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かつて、『死にたいって言っても、死ねないでしょ?』と口にしてしまったことがある。
死にたい、死にたいと連呼されて疲弊していた前提もあるが、
それ抜きに、心のない言葉を吐いてしまったこと、今も後悔している。
でも、死ねないくらいでいい。
死ぬ勇気なんて、死ぬ勢いなんていらない。
死なないでいてくれ。消えたいと思わないでくれ。
貴方はそこに在ってくれ。
死にたいって言わないでほしかった。
悲しいから。
死にたがっていた彼女は今、生きているだろうか。
私がいなくなったことで、『死にたい』が絶えているなら、きっとそっちの方がいい。
どうか、『死にたい』の引力に引っ張られずに、
貴方は貴方を好きでいてください。