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夏は死んだ。季節と言葉と思考は巡り、遠かった他人と自分の距離は少しずつ近づいている。

9月になって一気に冷え込んだ。夏は死んだらしい。
唐突な訃報に、先週と変わらず半袖のポロシャツで出勤する私は肩を縮ませるばかりだった。
肩にずっしりと夏の死体がもたれかかってくるからか、身体が少しばかり重い。
体調管理に気をつけたいね。今日は早めに寝ることにした。

夏が終われば秋が来て、秋は一呼吸のうちに冬になる。
緑と燦々太陽色の街並みを、刷毛を持った木枯らしが銀色に塗りたくる。
冬まではまだ遠い。肌寒い今日はまだ、25度前後。冷房と同等くらいの冷え込み。
気候が年々気分屋になっていく。昨年の秋は、まだ秋を感じられた。今年はどうだろう。

noteの記事はWindowsのメモ帳で書いている。シンプルで着飾らないのがいい。
白地に黒の文字。モノトーンを反転させるように文字を打つ。
最初のうちは、テキストファイルに、記事のタイトルをつけていたが、今ではただの[日付].txtだ。それは日めくりカレンダーをめくる感覚に近い。もういくつ書くと、10月、11月、12月。今年も終わる。
20日以上書き続けて、私にとって、日記を書く、という行為は存外楽しいことらしい、ということが分かった。手元にあった『風の歌を聴け』をめくる。

「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」

何度も口ずさむ金言。この言葉のおかげで、青さを失いつつある今も、絶望せずに言葉を紡げているのかもしれない。何ページか読み返してみる。デレク・ハートフィールドが「良い文章」について語った言葉も好きだった。

「文章をかくという作業は、とりもなおさず自分と自分をとりまく事物との距離を確認することである。必要なものは感性ではなく、ものさしだ。」

私の書く文章は、勉強机の卓上から生まれる。雑然とした机上には、モニター、ノートパソコン、デスクライト、そしていくつかの積み重なった本の山がある。ノートパソコンの隣には、映画を映すためのタブレットが置かれることもある。ANKERのスピーカーでロックやクラシックを流す。引き出しには束になった原稿用紙。ゲルボールペン太さ1.0ミリで書き出しを滑らせてみると気持ちがいい。原稿用紙だけじゃない。アイデアを無秩序に書き連ねるためのコピー用紙。あとは万年筆。先程のゲルボールペン。卓上の距離感が、今私が書いている文章だ。

そして、たった1つの一畳にも満たないデスクから、アナログ、ディジタル問わず、メモ帳を開いてみれば、簡単にどこの世界とも接続できる。小説の楽しいところだ。しかし、書いていて弾むようなものと読んでいて弾むようなものにはズレがあり、そのギャップがあるからこそ悩ましい。
私は紙とペンでどんな世界とも接続できるけれど、その世界を彩るのもまた私の紙とペンだった。

誰かに認められたい、そういう気持ちで書いていた時期もあるけれど、昔の話だった。その時代の小説は執筆という名の自己陶酔に染まっていて、とても読めたものではない。仮面ばかりを見せたがって、服の下には骸骨を忍ばせている。肉の薄い童貞の文章。楽しませることを知らない、チェリーノベル。

 楽しませること。エンターテインメント、という作り物を総称する言葉を一時期、毛嫌いしていた。だって、そこには明確に作られたものしかない。作品だ、作り物だ、生きていない。そういって遠ざけていた。当時の思想は、振り返れば、斜に構え一直線で曲がった自分カッケーっていうつまらないものだった。曲がったものをより曲がらせるわけでもなく、中途半端な曲がり方。真っ直ぐなものを受け止めた上での曲がり方ではなかった。王道を知らない邪道。そこに真の邪道はないと思う。

大学に入学し、社会人になり、王道のもの、多くの人が愛する作品を観て、中途半端な斜に構え方を悔い、恥じいた。面白いものは面白い。それらの『面白い』は自然の配合ではなく、緻密な計算を重ねて完成した確固たるエンターテインメントだった。計算式が存在する場合もあり、逆にまったく途中式もないままとびきりの結論を解き放つタイプの面白さもある。そういった面白いものに、私は今、猛烈に惹かれている。今では計算されたエンターテインメントを、冷静に分析してしまう癖もできてしまった。

遠かったはずのマジョリティはいつの間にか、近くにあった。つまるところ、これは距離感の話だ。
文章と私の距離、そして、私の世界と誰もが愛する世界たちとの距離。

変に斜に構えて面白いものから距離を取ろうとするくらいだったら、こっちから近づいてみたほうが案外面白いよ、っていう、昔の私への自戒と、同じ道を辿ろうとしている者への教訓なのかもしれない。

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