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『世界と切り離される』時間を作るために大音量でブラームスを聴いて、本を読む。

朝から午前中にかけて、身体が動かない。
夏の暑さの中、冷房をつけないでいると何をやろうにも手に負えない。
寒さは着込めば動けるけど、夏は裸になっても涼しくはならないし、
チェアーに汗が染み込めば触感が最悪だ。
夏は嫌いじゃない。でも、夏の暑さは日に日に嫌になっていく。
明日は、朝っぱらからエアコンの除湿機能をかけていきたい。

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今日は、朝起きて、30分だけ『1973年のピンボール』を読んだ。
寝起きすぐに読書をすると、徐々に目が冴えてくる。
平日の朝は、起きたらスマホに手を伸ばして、おもむろにSNSを開いてしまう。
この癖はあまりよろしくない。
簡単に、迅速に世界と接続できてしまうからだ。
『serial experiments lain』では、岩倉玲音がインターネットを使って世界中と繋がることを目指していた。『lain』で描かれているインターネットの未来像と現在は乖離している点も多いが、私も一時期はその考え方に同意していた。ボタン1つ、メッセージ1つで、どこにいる誰とも繋がる。その気軽さがいい。
 でも、ある一時期を超えると、繋がることが疲労の一因になってきた。私自身が人と長い時間関わるのが苦手という根本原因はあるが、一方で、『SNS疲れ』というワードもある。
 誰でも簡単に世界に接続できてしまうからこそ、知りたくない情報もノイズとして飛び込んでくる。それらの不要な情報は、脳内の容量を無駄に食いつぶすだけでなく、ときに精神のパフォーマンスをガタ落ちさせる。
 とりわけ、匿名の他人による心無い一言に引き摺られやすい、心優しくナイーブな御方が被るダメージは計り知れない。『顔の見えない相手』は特定できない。どこにいる誰なのか分からない。果たして1人なのか、複数人なのかすら不明だ。
 また、相手への意識だけでなく、そもそもの文章にも意識を向けねばならない。SNSならば、テキストベースのコミュニケーションが基本だ。SNS上のテキストで読み取れるのは、せいぜい文法と表面上の意味で、行間を読むには相当量の読解力が必要だ。読解力があっても、解読できないことだってあるだろうけれど。一定の読解力がなければ、表面上の意味すら、曲解して解釈されてしまう。(書き手には曲解されない文章が求められるし、読者には文章の本意を汲み取る力が求められる)
 つまり、匿名の相手や、感情の読めないテキストを相手にしていると、考えれば考えるほど、周りの人混みを忙しなく見回し、ごった返している人々に疑心暗鬼の目を向けるようになってしまう。
 人を疑うのは疲れることだ。
 SNSは麻薬のような側面を持つ。誰かから反応を貰うと嬉しくなって、次第に反応が貰えるようにムーブをする。しかし、自分のムーブが他人の不満を買えば攻撃される。疲労。離脱。反応がもらえない。孤独感。復帰。反応を貰う。以下、負の連鎖。
 辞めたほうがいい。
 もっと上手い付き合い方があるはずだろうし。
 SNSは承認欲求を満たすためのものではなく、そこには歴然とした社会が横たわっている。
 家族、学校、会社と同じで、それ以上に大規模な社会だ。
 インターネットに接続することで、私たちは社会と接続している。社会と接続している以上、コミュニケーションを取っていかないといけない。休み時間はSNS、それ以外はどこかしらのコミュニティ、社会と24時間接続している。そんな自覚をした途端、堪ったものじゃなくなった。
 私は社会と切り離されるために、イヤホンを耳にぶっ刺して、ヨハネス・ブラームスの『ハンガリー舞踊曲』を流す。そして、『1973年のピンボール』だったり、『なめらかな世界と、その敵』を読む。『グレート・ギャツビー』でも良い。
 何が言いたいかって言うと、世界と切り離される時間が必要だってことだ。

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