「生活」することは平和につながる
現在開催されている#創作大賞2024中間選考の中に、上記の記事があった。
すごくすき。
私がモンテッソーリ教育を学んでいるとき、モンテッソーリ教育は「生活」をすることだと教えられた。
モンテッソーリの子どもの家に通う子どもたちは、子どもサイズで整えられた環境で、身の回りの始末、掃除や料理、数や言語など、興味をひかれたものに嬉々として取り組んでいた。
その様子たるや、生き生きと生きていることを楽しんでいるようで、子どもたちの様子や表情に生きる力を与えられたし、モンテッソーリ教育を受ける子どもたちが増えたら、世界はもっと良くなるのにって、本気で思っていた。
それは今でも変わりないけど、モンテッソーリ教育じゃなくても、子どもたちがひとりひとり自分のしたいことに取り組んで、満ち足りた生活が送れるといいなと思う。
それで、本題に戻るのだけれど。
私は、昔から雑誌や書籍、YouTubeなどで誰かが「生活」している様子を見るのがすきだった。このキッチンでこんな料理をしている、とか、生活の中でこんな工夫をしている、とか、お部屋の使い方の紹介とか、穴があくほど見てしまう。
私は「生活」に憧れている。というか、人々の「生活」の中にあるその人なりの哲学に憧れるのだ。
たとえば、ミニマリストの女性が所持品を増やしたくないから、生活の中で必要な道具は買わずに、あるものを代用して使う話とか、ある人は食べることがすきだから、おいしく”食べること”に注力しているとか。
その人なりの「生活」に対する哲学が、生活全般に及んでいるのを見聞きすることで、すごく刺激を受ける。
で、冒頭の記事を読んだとき、そういえば私も「生活」してるんじゃん!と我に返ったのだ。
それほどあたり前すぎて見落とされてしまうのが「生活」。
あたり前なんだけど、すごく重要なことだってことを、もう一度心に留めておきたいと思った。
日々、ちゃんと「生活」をしていると、からだも心も健康になる。そうすると、ご機嫌に毎日を過ごせると思うのだ。ひとりひとりがご機嫌になると、世界はきっとしあわせな人が増えるだろう。そうしてもっと平和になるだろう。そんなことを考えている。
だから私は、今日もちゃんと「生活」した。と悦に入ることにしたのである。