空腹で飯をかっこむように、言葉の喉が乾くと貪るように本を読んだ。そんな時期があった。
あのときは、失いながら補給していた。ライティングの歩みを止めて消費した分のエネルギーを食らわなければ、躯体のピタゴラスイッチを起動させられなかった。使い果たし、空っぽになった思考瓶を命の水で満たしてやらなければ、歩みを再開できなかった。
それが昨今、とてもじゃないが読めない小説を匙を投げるみたいにして閉じたように、ぱったりと本を読まなくなった。
読みたくないわけではない。だけど、読書欲が競り上がってこない。
これはどうしたことだろう。
すでに表現の支出に耐えうる収入を得たからか? 吸収のリタイア? それとも打ち止めならぬ読み止め?
少なくとも語彙の蓄積が完了したわけではないだろうことはわかっている。むしろ不足が過ぎることくらい、自覚してもいる。つまり今回の症状は、ただごとではないということだ。
焦りはある。
読まなければ、と1日に1回くらいは思う。1日24時間分の数秒の、口中に放り込んだ綿菓子ほどの気の迷いみたいなものだけど、それでも毎日思うのだもの、継続は力のはずなのに、だのに、読書力がいっこうに出てこない。
読書の秋は読書欲をそそる風を吹かせる前に、冬将軍に蹴散らされてしまった、そのせいなのかな。そうだ、きっとそうに違いない。今年は読書力を発揮するタイミングを逸してしまっただけなのだ。
だけど、どのように自分に言い聞かせても、読めない焦りは消えない。
可能性はある。諦めてしまうには時期尚早だということもわかっている。本はいたるところにあるのだ。いつ何どき、読書欲が復活を遂げるかわからない。
家には積読書籍がだいぶある。手を伸ばすだけで届くところにある。だけど積読書籍は読むつもりの本ではなく、匙を投げた書籍の群れだ。気乗りのしない本に臨んでも、逆効果で終わってしまうことくらいわきまえている。だから読まない。
書店に行けば、目から鱗の新刊に心変わりさせてもらえるかもしれない。だが、迷って楽しい書店はご近所から消えて久しい。重い腰を上げて繁華街に出向けばいいのだろうが、自粛が明けた街は苦手な雑踏、遠目にしただけで踵を返して帰りたくなってしまう。
図書館はどうだろう。幸い今日は開館日。司書の知恵を借りて読書欲の発掘に挑もうか?
選択肢はもうひとつある。来年の読書の秋風が吹くまで読書冬眠を決め込む怠惰道。
たまにはそんな年があってもいい。
最後通牒は、これだな。
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