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夢のこだま。

 夢の常識は現実の非常識。

 ルールブックを手中に収める夢と違って、現実は社会や上司や親や先生に、やることなすことの臨界点すべてをまるごと管理されている。夢での常識は、通用しなくなっている。

 夢でなら授業中にお弁当を食べることだって、教室の扉をノックした彼女の誘いで授業抜け駆け海辺の散歩に出かけることだってできるけど、現実社会では先生からチュークが飛んでくる。

 夢でなら、カタカナの擬似音を護衛に飛来するチョークは大陸間弾道ミサイルの如く一途で直線的で破壊力抜群、迫力があってスリルとサスペンスに満ち、物語の盛り上がりを予感させるけど、現実のチュークはでたらめに回転しながらコツンとおでこに当たって砕け散る。
 
 せっかく気持ちよく自分の世界に浸っていたのに、先生ったら。

 夢でなら、体をのけぞらせれ弾道チョーク・ミサイルを避けることなどお茶の子さいさいだけど、チョークのコツンで目覚めた眠気まなこではあまりに分が悪いし気まずすぎる。
 映画『マトリックス』のキアヌ・リーブスだったなら、先生から受ける糾弾だって身をそらせてピンチを脱することもできただろうけど、現実に戻った僕はもうキアヌ・リーブスではなくなっていた。
 
 このようにして、僕の学生時代は、よく勉強から置いていかれていた。よく勉強ができる子だったならよかったのに。おかげで大人になった僕は、苦しめられた勉強に複雑な感情を抱くようになっていた。
 
 コンプレックスが起爆剤となって、ふとした瞬間にスイッチが入る。大人になった僕は、今でも勉強をしなければならなかった時代の夢を見る。

 夢の中では無敵である。勉強ができなくても、万事、丸く収められる。なんでも来いの大風呂敷。なんてったって、ルールブックはこの手の内にある。

 このようにして僕は、勉強ができなかった自分にエールを送り続ける。取り戻せないことはわかっちゃいるが、負の遺産で心に開いた穴を虚空の空回りで埋めようとする。枯れた花に水をやることほど無駄なことはないと、現実の僕はわかっている。でも夢の僕は、結果をいくらでも書き換えられる。現実の無駄な努力は、夢の中で叶えられる。

 やっても実りがあったかどうかもわからない素質を鑑みることなく、勉強しておけばよかったと現実の僕が悔やんでも、その思いが夢に届き、夢の中で僕は届かなかった夢を叶えていく。
 
 大人になってもあの過去の一点から逃れられない。
 これも含めてすべてが夢であったなら、目覚めの朝日は眩く希望に満ちているだろうに。
 
 ……。
 非常識はいつだって現実に打ちのめされる。
 
 仕方ない。今夜もまたいい夢を見るとしよう。

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