見出し画像

人それぞれの都合によって。

 窓を開けた勉強部屋に漂ってくる都会の野良猫の糞尿被害に我慢の堰を切った少年が、犯人と思わしき猫を撲殺した。神戸市須磨区の事例もある。近隣で彼を知る者たちさえ新聞沙汰になった少年を敬遠し、揶揄した。
 周囲の住人には、一部の愛猫家を除けば、少なからず同じ悩みを抱えている者も少なからずいた。だが同情の声を上げれば、非難の矛先は間違いなく自分にも向けられる。庇えば自分も暴力推進派の烙印を押されてしまうことになる。それだけは避けたい。そんな保身が毛羽だつ感情を抑え込み、迷うことなく少年を孤立させ、非難する側についた。
 もし仮に町内で被害を共有していたら、結果は違っていただろう。保健所が取り合ってくれれば、捕物撃の末に、よければ保護猫、幸運の女神が微笑まなければ殺処分。十中八九、後者の道を辿ることになる。非難の的を避けられても、野良の命が絶たれるという結果は同じだ。
 
 なのに人は自分の正義に納得したがる。同調圧力であれ個々人の思考であれ、間違っていても自身を説き伏せることができれば、黒も白になる。結果的に猫の命が絶たれても、これでよかったんだと納得への説得で、顔をのぞかせた良心を覆い隠す。
 
「人間って勝手だよね」
 爆弾を落とした側が、落とされた国の被害状況をあえて伝えようとしていなかった現実がある。戦後78年を迎えて初めて溶け出した現実だ。
 このように人は都合のいいように解釈し、人民の意識を誘導していく。惑わされていることに気づきもしない人民もまた、暮らしレベルで都合のいいように解釈しすまし顔で生きていく。網状に広がる自分流解釈の連鎖は、納得のトリクルダウン。都合の悪いものに目を瞑り、掴み取れる幸せに目を向ける。
 
 人が争いを始めたって、所詮はどっちもどっち。都合のいい納得で生きていく者同士、互いに責め合うなんてことは本当はナンセンスなのだけれどもね。正義感を振りかざしたって、人を裁こうとしたその瞬間に犯罪者。裁く権利を持たない者が人を裁こうと腰を上げれば私刑執行者に成り下がる。権限を肩代わりしたような物言いをしたとすれば、たちまち職業詐称、法律関係者だと偽れば最も重い刑事罰の対象となる。
 この理論もまた権限を持った方々が作り出した納得の賜物。
 
 戦争を始めた当事者が被害者だと声を上げる世界だもの、何を信じていいのだか。
 人は、勘違いしてでも、自分が正義に生きていると信じてやまない生き物だ。自分が納得してしまえばそれでいいという。
 そんな理屈で争いが始まり、社会が燃えていく。
 
 人の思考の構造をわかっていないと間違ってしまうことになる。
 間違いたくはない。でも街頭で声を上げるわけにはいかない。上げるとたちまち非難の対象にされてしまう。自分の都合で、人は他人を責める。納得のいかないことに対して、己の正義を振りかざす。
 
 人の本性とは何かを考えていかなければならなのだと思う。これまで理解のきっかけさえ投じられてはこなかった、そのせいで人類の気づきが遅れている。
 だから筆を取る。自分の都合で。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?