逆算の幸せ。
ときどき、しょうもないことを思いつく。あまりにくだらないから口にはできず、人様に話すことはない。口をきゅっと結び、息を止める。
だが指は奔放で、意志に縛られず、勝手に動く。
書くのは僕のせいじゃない。カミュのせいだ。
山男じゃあるまいに、韻を踏み、紙があるから書くんだよ。書くは紙にじゃなくモニタにだよねと突っ込むことなかれ。イメージはデジタル時代でも紙に書く。
物書きはまったくもって屁理屈でできているとつくづく呆れる。
いやなに、納豆をかき回したのだ。
箸の周回が重なるごとに、指が重くなる。カミュじゃないけど、粘りが出てくるせいだ。ポリグルタミン酸が生まれ出で、旨くなる。美味いは幸せ。
なのだけれども、ふだんの繰り返される朝食に、格段の幸せを感じたことはない。
納豆をかき混ぜながら、そんなことを思った。
思いは周回を重ねる度に突飛な枝葉を伸ばしていく。たどり着いたのは、死の淵から引き返したあとの納豆だった。
ああ、納豆をかき回せる自分がいる。また生きられた。ポリグルタミン酸を生み出して、旨味を引き出してだな、なんてことを思いながら、しみじみと粘りの触感を味わっていく。
そのなんと幸せなことよ、だったのだ。
納豆は100回のかき混ぜをすぎるあたりから粘りが雲海となり、柔和にほぐれた豆を包み込む。そんな納豆の新生に賛美を贈り、贈る自分の生を意識し嬉しくなって、笑みの祝福が食卓をすっぽりと包み込む。
死の淵から引き返したなら、納豆の食卓さえ豊穣の幸福だ。
今朝、こんなしょうもないことを思いついた。ふと湧いたそんな思いをぐるぐるかき混ぜたら、いつもの納豆がいつもより美味しくいただけた。
幸せは、幸せを感じられる到達点まで、爪先立ちで耐え忍び待ち侘びる必要はない。幸せの到達点から逆算して幸せを呼び寄せれば、変わらぬ毎日に感慨が降りてくる。
安上がりだけど、もしかしたら最も確実な幸せなのかもしれないと思った。