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猫のおまわりさん。
迷子になったことがある。蠢く大木のような大人の人垣に靴一足分ずつしか進めぬ初詣の人混みは、夏の海水浴場の押し寄せ人を呑む畝る波ほど恐ろしかった。海の波はワニの捕獲と似て、捉えた獲物の躯体に噛みつき、揺さぶり、振り回し、意識を撹乱させ肉を喰らうけど、粘着性を伴った密度の高い蠢く人の初詣の流動は、その動きは決して俊敏とは言えないが、有無を言わさず人力ではとうてい及ばぬトルクをかけてきて仕留めにかかる。
海の波は自力の発揮のしようもあるけれど、力を持った人の波はそうはいかない。抵抗は無駄に終わる。
「父さん」
握っていたはずの父の手が、ぎゅっと握っていたはずなのに力技で指1本ずつを剥がされて、繋がっているはずの父子の縁の糸はそれでも切れまいと必死に手を離すまいと鋭意努力はしてみたものの、その甲斐虚しく、ぷつんと切れた。真綿で首を締めるように、それはまるでスティール写真を順番に並べていくような速さで2人を引き剥がしていった。
父の手から子の手の感触が消えた時、父は何を思ったろう。
僕の手が父の手の感触を失くした時、僕は命の火が風前に晒された思いに絶望を見た。
密度の高い蠢く人の流動は、人心になど関心は寄せない。個々がそれぞれの思いを抱えて、ひと所に詰め込まれた世界で目的を遂行しようとおのおのがその自由意志で前に進んでいるのだ。歩調に、祈願に、連れに、詣でた後の予定に、同じものなどひとつもない。初詣という目的は一にしても、個の動きに統一性はなく、奇行種に翻弄されるように絆はどんどん断ち切られていく。
一度海底に沈めば、落とした指輪など、もうどこに行ったかわからなくなるものだ。
「というわけなんですけど」子犬
猫にも幼い頃、同じ思いをした経験がある。子猫の頃は困ってしまってにゃんにゃん泣いてばかりだったけれども、迷子の子犬は名前さえ訊いても答えられず、きゃんきゃん泣いてばかりなのだ。なるほどね、今ならあの時の犬のおまわりさんの気持ちがよくわかる。
だけど犬のおまわりさんには解決できなかった。歌は、迷子を親に送り届けていないのだ。
大人になっておまわりさんの職に就いた今、猫のお巡りさんは迷子の子犬を前に心に決めた。
「そろそろあの物語に決着をつけてやる」
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