しらっとやられる『ここまでスイッチ』。

「年金ちゅうのはけったいな制度やでぇ。65歳になるともらえる年金、誕生月になると増額しまっか？　ちゅう案内が来よる。これはな、受給する時期を遅らせれば余計に年金がもらえまっせちゅう案内やねん。１か月支給を遅らせれば0.7パーセントずつの増額。１年伸ばして66歳からもらうと8.4パーセント、70歳までがまんしよると42パーセントまで積み上げられるっちゅうわけや。生きてることにつま先立ちしてふくらはぎがぷるぷるしだす75歳まで我慢すると、なんと、なんと、や、84パーセントを上乗せしまっせゆうときとる。
　魅力やねえ、84パーセント増。
　ところが、や、84パーセントちゅうのんは、腑に落ちんわけや。ワイは考えたのや。ワシ、いくつまで生きるんじゃろってな？

　仮にや、85歳で死んだとして、65歳からもらう年金と75歳からもらう年金の総支給額とじゃ、どっちが得なんじゃろ思うてな、計算してみたんや。たとえば支給額が５万円として、65歳から85歳までで、５万円×12か月×20年で1200万円。75歳からだと、５万円×12か月×1.84（増額分）×10年で1104万円。その差96万円で65歳の大勝ちやねん。
　85歳より長生きできるのやったらええで。世の中100歳時代ちゅうからの。90歳まで生きとったら、65歳バージョンが1500万円、75歳バージョンは1650万円が総支給額や。この逆転劇は87歳で起きる。嘘や思うたら計算してみるとええで。ほんまのことやさかいに。それ以上生きとったら、85歳バージョンがカール・ルイスみたいにどんどん先を走って後続者をおは黒の歯ぁにかっとのぞかせ、勝利の顔を向けてきよる。

　ワシかぁ？　世にはばかる憎まれっ爺こタイプじゃからのう。そこそこ生きていくじゃろ。だがなぁ、85歳まで生きとるかどうかはわからん。そこまで至る道の途中で死んどるのと違うか？　なら、受給日を遅らせると損することになるちゅうわけや。85歳までで人生打ち止めされるなら、65歳からもらっといたほうが得するっちゅうことになる。

　年金制度はありがたい。団塊の世代においしいところを全部持っていかれた恨みは一生忘れへんけど、それでももらえるものがあるちゅうのはありがたいもんやで。
　ただひとつだけ、政府に物申したいのんや。あんたら、支給開始時期の自己申告制度を導入したのんはいいけれど、残酷な選択をワシらの喉元に突きつけたの、わかってまっか？　その制度、ワシらに、いくつになったら死ぬ気ぃでっかと言っているのとおんなじや。

　いい加減にしいや。ワシらまだ生きているんや。それにリタイヤ、リタイヤよう言いよるけど、まだまだ働けるでぇ。それを定年退職で勝手に切り捨てておってからに、しまいにゃあ、ボランティアで金のかからん労働力ちゅうて、プライドもモチベーションもありゃしないどうでもいい仕事を押し付けとるやないか。

　ほんまにいい加減にせいや、とワシは腹の底から怒りの声を上げとるのじゃ。
　聞いとるのか、おい。

　ま、いいけどな。そっちがその気なら、こっちはこの気や。

　知っとるか？　歳をとるとファンタジーが目の前に広がってくるんやでえ。若い頃のとは少し違うのじゃ。ハートに描く夢の世界とは違っての、もっと現実的なんじゃ。この前、訪問販売で買こうたのもその世界の人からのものでの、このタイマーや。その人、けったいな服着ててのぉ。全身青づくめや。まん丸い顔して、タヌキのヒゲみたいなのを生やしておったわ。服の腹のところにこれまたけったいを二乗したみたいな袋が縫い付けておってのぉ、そこからこいつを取り出したんや。
『ここまでスイッチぃ』
　そう言うとったわ。
　85にセットしときゃあ幸せに生きられる言うとったから、ワシはさっそくセットしたでぇ。
　買ったのかって？　そりゃ買わなんだら、ここにあるわけないじゃろが。
　いくらしたかって？　そりゃ秘密じゃ。口が裂けても言わん。棺桶まで持っていくつもりなんや。他人に話したら幸せがほどける言うとったからの」

　それって新手の特殊詐欺？
　長生きはするもんだと思うけど、得した分以上を持っていかれぬように、妙な親切とまやかしの脅しにはご用心。