精神に溜まったサビを落としに。時々に応じて、そういう儀式が必要になることがある。
遠くであればいいというわけじゃない。洗われなくてはいけない。洗われる場所でなければならない。
汚れちまうのは、悲しみばかりではない。無垢も、純真も、良心も、社会が吐き出す二酸化炭素に侵されちまっている。放置しておけば、どんなに立派なお屋敷だろうとチリが積もるのと同じだ。磨いたはずのガラスが時を経て曇っていくように、精神も世俗の垢で汚れていくものなのだ。頬をススっと撫でてみるといい。ぬめっとした感触を人差し指が拾ったら、そろそろ頃合い。落としに出かけなければいけない。出かける間際、火打石で起こりうる不吉を払い落とすみたいに。
聖地巡礼。
人は見えざる重荷を抱え込み、その余分なお荷物を肩からおろさなければならない時が来る。洗われにいかなければならない時が来る。
願いを指先に込め十字を切るかどうかは信仰による。必然ではないけれど、切らなければならないものをスッパリ切り捨てる覚悟はいる。清水寺の舞台がなくても、飛び降りる時には飛び降りなければならない。
切り捨てるべきものがが縁なのか、溜まった垢なのか、しがらみなのかは人による。
聖地で。
だから、聖地へ。