エレーヌについて(後編)
(この note は、あくまでもフィクションとしてお楽しみください)
こんにちは、マルセル・ジュグラリスです。
フランス人男性です。改めましてボンジュール!
前回の「エレーヌについて(前編)」では、私の恋人、エレーヌの自慢をさせていただきました。後編では彼女のライフワークともいうべき「能」の舞台を実現するための悪戦苦闘についてお届けしたいと思います!
(読んでいない人は是非、前編から読んでください。)
彼女から「日本の能が好き、どうしても能が舞いたい」と聞いたときは「ケスクセ!(何それ!)と叫んでしまった私ですが、すぐに彼女を応援するための行動を開始します。
エレーヌは早くから自ら舞う能の作品を、三保松原を舞台とした「羽衣」に決めていました。天女が羽衣をまとい舞い踊る幻想的なシーンが、彼女の胸を打ったようです。
私たちは「能」そして「羽衣」に関する資料を求めて、パリ中を探し回りました。
当時のフランスでは、能に関する文献や日本研究家は少なく、独学での研究は困難を極めました。
しかし、頻繁に通ったギメ東洋美術館の図書室で、幸運にも日本の研究者や能の翻訳者に出会うことができたのです。ギメ東洋美術館は、東洋研究家・エミール・ギメが日本から持ち帰った仏教画や仏像のコレクションをもとにした美術館で、当時としては最も日本の情報が集まっていました。
ギメ東洋美術館
私たちは、彼らから能に関する当時手に入れられる限りの資料を収集することができました。しかし資料が集まっても、能の舞台を実現するには様々な道具や衣装、楽器なども必要です。
ひとつひとつ、手探りで道具や衣装をそろえていきました。
もちろん、どうしても手に入らないものは手作りで!
中でも難しかったのは、謡曲「羽衣」をどうやって演奏するかです。
笛や太鼓はなんとか揃えましたが、譜面などありません。
なんとか入手した、謡曲「羽衣」が収められたレコードを、エレーヌは何度も何度も聞き直し、一音一音を西洋音階の譜面に直していきました。そう、彼女は優れた音楽家でもあったのです。エレーヌの素晴らしい特徴がまた一つ追加され、このようになりました。
そうして、やっとの思いで作り上げた、初舞台。
1500人の客に囲まれて実現した、ギメ美術館のホールでの初演の様子がこちらです!
すごくないですか?
すごくないですか?
エレーヌのすごさ、わかりましたか?
これ全部、ゼロから揃えたんですよ?
ちなみに、これが私です。
エレーヌも素晴らしい衣装をまとってご満悦です。
この初舞台は大成功をおさめ、フランスの新聞がこぞって取り上げられるなど、大きな反響を呼びました。
パリにあるユネスコの本部に招待され「羽衣」の公演を行うなど、順風満帆だった私たちの人生に、悲劇は突然やってきました。「羽衣」の公演中、エレーヌは羽衣をまとって倒れてしまったのです。病院に運び込まれた彼女は白血病でした。
エレーヌは死を覚悟したそのときに、私と結婚しました。
そして「私の変わりに三保松原を訪ねてほしい」と言い残し、1951年、35歳の若さでこの世を去りました。
悲しかったですね。
悲しかったなんてものじゃなかったですね。
なんといっても最愛の、自慢の妻でしたから。
彼女の想いに突き動かされるかのように、私はエレーヌの遺髪と共に、三保松原を訪れました。
そして、行く先々で、エレーヌのことを話しました。
私からエレーヌのことを聞いた当時の清水市民の皆さんは、とても驚いていました。
敗戦で自信を喪失していた市民は、戦勝国でもあるフランスの女性が日本の伝統芸能を愛し生涯を捧げたという話に感動したそうなのです。
そしてなんと、多くの市民のみなさんから寄付金が集まり、こんなことになってしまいました!
「祝 エレーヌ夫人 羽衣の碑 除幕式」
って書いてありますよね?
すごくないですか?
すごくないですか?
なんと、三保松原に「エレーヌの碑」を作ってくれたのです!
これには心底、驚きました。
除幕式で私はこの碑の下に、パリから持参した彼女の遺髪を収め、彼女の記憶を永遠のものとしてここ三保松原に祀ってくれた市民の皆さんに、心からの感謝の言葉を述べました。
あの除幕式は1951年でしたから、かれこれもう70年くらい前・・・
私の昔話を、いえ自慢話をここまで読んでくれたあなたにも、深い感謝の意をささげたいと思います。
最後になりますが、エレーヌの碑に記した私マルセル・ジュグラリスからエレーヌに捧げた詩を記して、このnoteを終わりたいと思います。
“美保の浦 波渡る風 語るなり パリにて「羽衣」に いのちささげし わが妻のこと 風きけば わが日々の すぎさりゆくも 心安けし”