エッセイ「文語勉強中なう」
「我家に宿りたる書工は、廊外に出づるをり、我を伴ひゆくことありき。」とはアンデルセン『即興詩人』森鴎外訳の一節である。こういうのを文語という(知ってると思うが)。私は今、この文語をいち早く読めるように&そして書けるようになりたいと所望しているのである。表向きの理由は、夏目漱石『吾輩は猫である』に感化されて、語彙の豊かな文章を書いてみたいと思ったから(『猫』は基本文語体小説ではないが、時々文語的な言い回しが出てくる)。先日投稿した「床屋での驚きの注文」などは、自分なりに『猫』を憑依させて書いたものである。ちなみにその前に書いた短編小説「イカの塩辛パフェ」は、適当に書きすぎたせいか驚くほど反響が悪かった。やはりnote民の審美眼は信じてよいものだと思った。過去の投稿にも、伸び悩んでいるが一生懸命書いたものもたくさんあるので、ぜひ掘り返してみてほしい(オススメは「斜め上すぎる返答」とか)。
話を戻すと、表向きの理由が語彙や表現の幅を広げたいというのであったのに対し、裏の理由は実はそれと真逆(?)に近いものなのである。隠し立てしても仕方ないので言うと、ライトノベルを書いてみたいのである。一冊たりとも読んだことがないのであるが。タイトルがもう決まってしまっている。『僕の姉は文語でしゃべる』だ。アイドル級のルックスを持つ姉は、なぜか文語でしか喋らないとんでもない「げんきなおともだち」だった…というのが物語の設定である。要は、これまでも試みてきたが、おともだち小説が書きたいのである(おともだちが分からない方はトップ画面固定記事「げんきなおともだちとは何か」をご参照ください)。しかしここに存するパラドックスは、私自身がおともだちであるため、おともだちのことは分かりすぎているが、外側からは描けないというウロボロス的なものであった。例えば、女性がキスして欲しいときに全然せずに、して欲しくない気分のときにしようとする男、これを描こうとするときに、重心が男(=自分)に乗っかっている限り、女性の気持ちは「分からない」の一点張りになってしまい、そこより先へ突破できずにずっと悩んでいた。そこで男女を入れ替え、男性をいわゆるふつう人、女性をおともだちとして描き、男性視点から、おともだちを外側から描こうともしてみた(それは小説「身も蓋もないものども」という連作記事になっている)。しかしそれも二回で頓挫してしまった。魔理沙という女性の話があちらこちらへ次々飛ぶという設定にして(これは私自身の特徴である)、自然な筆運びを目指したつもりだったのだが、ふつう人のはずの男のほうの話まであちこちへ飛んでしまうので(それはそうだろう、それも私が書いているのだから!)、ふつう対おともだちという対比を描けなかった(対比を描くのは、もちろんおともだちの面白さを描きたいからであり、揶揄したり欠損を描いたりするためではない)。それに更にリアルな問題として、ついに三人目の登場人物を登場させられなかったという点もある。これは私が私生活で、三人以上での会話というもののやり方が全く分からないことに明らかに起因している。今はもうその機会自体退けているが、大勢の飲み会などに行くと四時間で一言も発しないなどということもざらにあったくらいである。そんなわけで、小説家にあるべき資質「キャラクターを描き分ける」すらまともにできていない私であるが、だからこそ『猫』や『坊っちゃん』が刺さる刺さる。漱石は文語体では書かなかったが、漢詩の知識などから豊かな語彙を駆使した彼に加え、文語小説を書いた森鴎外や樋口一葉らから大いに学んで、この地下潜伏期間を豊かなものにしていきたい。