エッセイ「M-1の出囃子から考える」

2024年のM-1グランプリがYouTubeにあがって、見直している人も多いだろうが、今日はその批評をやろうというわけではない。書きたいのはごく些細な気づきだ。というか皆さんも気づいているはず。コンビ登場時の出囃子が、テレビ版と微妙に異なっていることを。

おそらくは権利上の都合だろう。だが理由などはどうでもいい。皆さんの脳裏の中には、おそらく一瞬「あっ」という違和感が萌すはずである。だがネタが始まる頃にはその違和感は意識上から無意識下へ押し込められている。私はこの「押し込め」作用について述べたいのだ。

「映画はほとんど毎秒ごとの驚きの連続であり、皆それに気づいてはいても、時間が経って思い出せないだけ」とラジオで語る批評家の廣瀬純さんは、私が参加した限り少なくとも一度、「リアルタイム批評」という試みをやっている。それはどういうものかというと、フィリップ・ガレルの『ギターはもう聞こえない』をDVDで流し、流しながら廣瀬さんはずーーっと喋り続けるのだ。映っているもの、映し方について。それに接したときの雷に打たれたような衝撃は忘れられない。言うべきことはこんなにあるのに、我々はその99%を意識下に押しやってしまっていたのか…。

また別の思い出。平倉圭さん、大谷能生さん、細馬宏通さんで、ゴダールの3D映画『さらば、愛の言葉よ』を徹底分析するというライブイベントがあった。平倉さんは、パソコンソフトを駆使して、6つあるスピーカー(などということも普段私たちはほとんど意識しないが)のうちゴダールは敢えて中央のスピーカーだけごっそり抜いている、とか、このカモメの声の波形は30分後に反転された形で出てくる、とか、とんでもない分析をした(その他のお二人も面白い発表をなされた)。あまりにそのイベントが面白かった私は、質問コーナーの際に手を挙げ「今日やったような、トークライブでしかできないような分析を目の当たりにすると、文字の劣位というか、トークイベントの優位ということを感じざるを得ません」と述べた。平倉さんはそれに対し「それは僕も思いますね」と返答し、大谷さんは「僕は、文字でやれることは文字でやれること、トークでやれることはトークでやれることと分けているので、それは感じません」と返答なされた。これも忘れられないリアルタイム批評だった。

話は出発点から随分と離れてしまったが、私が言いたかったのは、日常に溢れる「小さな気づき」(私はそれを「気づき未満」と呼んだり「気づきの種」と呼んだりする)を無意識下に押しやってしまうのではなく、あとで振り返るというモメントを経由することでそれを再び意識上にのぼらせること。そこでやはり「感想戦」というものの大事さが際立ってくると思う。コンテンツを一回で消費するのではなく、繰り返し見て、感想を友達と言い合って、小さな気づきをどんどん明るみにしていけば、創った側も浮かばれると強くそう思う。

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