エッセイ「健康人とシンド人」
「世界には二種類の人間がいる。〇〇と△△だ」…よく聞く論法である。たしかに胡散臭さはただよう。だがひとまずそれに乗っかってみれば、世界には「健康人(けんこうびと)」と「シンド人(しんどじん)」がいる、とまずは宣言してみることができるのではないか。
これは単なる区別ではなく、ましてや差別でもなく、概念形成の試みである。「哲学は概念の創造の営みである」というドゥルーズの言葉は有名かつ一人歩きしているが(←一人歩きしてくれたおかげで知れたのが私)、ひとつの概念が作動するには、別の概念とのアジャンスマン、つまり組み合いがきちんといかないとだめである。スピノザの公理「結果の認識は原因の認識に依存し、かつこれを含む」がどれほどシンプルで当たり前に見えようとも、そこから放たれた矢が人類未到の地まで飛んでいくがごとく、概念もうまく機能させれば我々を未知の場所へと連れて行ってくれるはずである。
…などと大見得を切ったものの、大した目算はない。「健康人」というのは、健康でありかつ健康を振りかざしたり、メンタルの弱い人を積極的に視界から消していこうとするような心性の持ち主である。こういうタイプには実生活でけっこう出会ってきた。自ら「メンタル鋼」と称する人は、そうでない人の存在が嫌いなのだろうか、あるいは自分を脅かすものとして怖いのだろうか。
映画批評家などで、よく「映画は映画館で観なければ」と言うものがいる。これなども、相応の説得的理屈はあるにせよ、やはり健康人の側から発せられた言葉である。映画館という空間に閉じ込められることが無理なシンド人もいるからだ。しかしそういうしんどいシンド人に限って、映画というものを心の底から愛していたりするのである。タランティーノはレンタルビデオ屋でバイトしながら、空き時間に小さなテレビ画面で映画を見漁ったという逸話を聞いたことがあるが(いや、彼は健康人かシンド人かという以前にげんきなおともだちだが笑)、映画愛はスクリーンでのみ発揮できるものではない、とシンド人の側から言いたい。これはもちろん、スクリーンで見れる人、いいなぁという羨望の裏返しであることは言うまでもない。
概念形成などと言いつつ二、三の事例を書くに留まってしまったが、逆恨みとしてではない形の「健康人」の肖像と、救済の意味を込めた「シンド人」の肖像をきれいにかついびつに描き出すことが今求められていると思う。