【さんまのスーパーからくりTV】酒井素樹論

さんまのスーパーからくりTVに出ていた酒井素樹さんをご記憶だろうか。独特のルックスと爆笑の替え歌で、一時期番組のスターとなった。最近ではTikTokもやられていたが、一昨年の年末を期に投稿がない。元気にされているだろうか。

私にとって酒井は、いつでも尊敬すべき人である。第一「げんきなおともだち」のお手本のような人だ。とりわけおともだちの第4条項「見ていて笑える」を綺麗に満たしている(拙稿「げんきなおともだちとは何か」参照)。とあるVlog的な動画で彼は「どうも、格差社会の犠牲者、酒井素樹です」と挨拶していたが、そこに妬みや卑屈さは感じられない。むしろ道化的に振る舞うことの清々しさが感じられて、見ていてどんよりした気分には全くならないのである。同じ敗残者として、ここは強くリスペクトしたい点である。

続いて彼の替え歌を批評していこう。
イルカ「なごり雪」の替え歌「のこり汁」で、酒井は「今月の豚汁はこれが最後ねと 寂しそうに僕はお椀持つ」と歌う。この「お椀持つ」がいい。俳句ではたまに、「靴紐結び」のような語句に対して「靴紐とくれば結ぶものだから“結び“は不要」というような言い方がなされるが、その中で例外的に、「〜眺む」のように敢えて「〜を私は今見ている」感を強く押し出したいときにこの畳語法を使うことがある。酒井のこの歌詞も、石川啄木の「ぢっと手を見る」のように、あぁ、今まさに豚汁が入ったお椀を手にずしりと持っているんだなぁという感じを聴き手に起こさせ、外すことのできない歌詞である(「壊れかけのSakai」の中にも「緊張で落とした3年ぶりの赤いマグロ」という歌詞があるが、この「赤い」も「マグロだから赤くて当然じゃん」と突っ込んではならない。酒井にとって3年ぶりのマグロは「旨そう」よりもまず「赤い」のである。このあたりに極限心理のようなものが生々しく表れ出るのも酒井一流だ)。

アリス「冬の稲妻」の替え歌「金を拝借」は、元歌のサビの「You’re rollin thunder」を「田中さんだー」と替えている。これは酒井にしては珍しく理が勝ちすぎていて、凡作だと思う。たまにこのような普通の作品も挟みながら、徐々に酒井は化けてゆく。

尾崎豊「卒業」の替え歌「忠告」は次のように始まる。
「金がなきゃ芝生を食え 御苑はアクがない」
これをもし英語に翻訳すると、例えばIf you don’t have money, you should eat grasses. At Shinjuku Gyoen, grasses are…と言ったように主語が重たい文章にならざるを得ない。酒井の歌をもう一度引こう。
「金がなきゃ芝生を食え 御苑はアクがない」
短い文字数にたくさんの情報量を詰め込む超絶技巧がここでいかんなく発揮されている。それはちょうど、テレビにちょっとしか映るチャンスを与えられない素人が、そのちょっとの中でいかに爪痕を残すかという葛藤や工夫に似てもいる。酒井の歌詞は、その密度にこそ注目されねばならない。

酒井の最高傑作とも目される、コブクロ「蕾」の替え歌「余命」。この曲についても語りたいことはたくさんあるが、まずは「やはり酒井の命はゴミより軽い」の「やはり」がいい。繰り返すが卑屈さはなく、笑うことができるタイプの自嘲、自虐である。
この曲は、酒井が土手で(飢えて?)倒れてから4時間後に、仲間の法夫と良男が助けに来たと思ったら、酒井のポケットから「キットカット一個」(ここが原曲の「きっときっときっと」にかかっている)を抜き取って、裸足で逃げていったという歌である。そんなに飢えているならまず自分でキットカットを食べればいいのに、とフィクションに対して野暮なツッコミをしてはだめである。
それよりも「薬では治らない不治の病“腹ペコ”」という歌詞に注目すべきだ。「不治の病」などと言っているが、その実100円あれば治るのが空腹である。酒井のような捉え方は、本当に飢えたことのある人しか持てない考え方、感じ方だと思う。冷静に突っ込んで切り捨てるのではなく、その感覚を最大限尊重したい。続く「立ち止まる犬にゴクリ」などもそうである。この曲のあまりの出来栄えに、作家がついているのではないかという説もあったが、敢えて私は酒井本人がすべて作っていると思うことにしたい。もちろんフィクショナルな部分は多分に含むが、それでも酒井自身のヴォイスとして歌を聴いたほうがより心に沁みるからである。

GLAY「HOWEVER」の替え歌「生きてればー」も傑作だ。
からくりTVのレギュラー、浅田美代子は全編にわたって酒井を全く受けつけない者としてリアクションするのだが(「もうやめてよー」「信じられなーい」など)、この曲のサビ「替え歌に注ぐ情熱を”酒井家の生き恥”とののしられ」のところで入る浅田のカラッとした笑い(全然他人事かのような)もまた酒井の悲惨さとのコントラストをなしていて、いい。
そのあと歌は「目の前のかんぴょう巻きつまむことできなかった おあずけの意味を知る」と続き、父に土下座すると父が「震える素樹の体を抱きしめて鉄火巻き食べさせる」のだが、ここからが驚きである。
「パリパリの磯の味 ありがとう」
なんと酒井はマクロではなく海苔の方に感動しているのだ! それならかんぴょう巻きでも同じではないか。これもまた、限界状況に置かれた者のみが持てる真理の感覚なのであろう。

からくりTV最終回で披露された、ゆず「栄光の架け橋」の替え歌「永久のかえうた」の、本当に最後のフレーズは「君と酒井に宿れ生き力を」なのだが、この「いきぢから」という言葉は、よく考えると酒井の造語だろう。他では聞いたことがない。だが歌を一聴して、この「いきぢから」という意味がわからない聴き手は一人もいないだろう。これを私は以前「やむにやまれぬ表現」として論じたので、noteのだいぶ下の方になるが、併せて読んでいただければ幸いである。

以上、酒井素樹さんの偉大さをこの先も忘れないために、拙いながら論じてみた。

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