エッセイ「差異ってたのしいものなんですよ」

ドゥルーズは「概念的差異」と「差異の概念」を区別した。前者は、AやBという項を先に考えたうえでの、そのAB間の違いのことである(私とあなたがまずいて、その違いを大切にしようよ…)。そうではなく後者の「差異の概念」は、項に先立って存在する差異、そのようなものをドゥルーズは考えようとした。これが単なる関係主義や構造主義に収まるものではないことはよく知られているが、そうであるとしても、素朴に改めて考えると、ドゥルーズはなぜそこまで同一性を忌避して差異、差異と言ったのだろうか。そういう初学者が問いそうなところに改めて立ち返るのも重要である。
先日、浅田彰の『逃走論』をパラパラ読み返していたら、実にアッケラカンとこう書いてあった。

「ここでやや唐突に言えば、差異というのはとてもたのしいものなんですね。同じような人間ばかりが同じような品物ばかりに囲まれて暮らしてる世界なんて面白くもおかしくもない。多種多様なものが違った面を見せてくれるからこそ、世の中、面白いわけでしょ」

なるほど、そっか、差異は楽しいからいいのか、とミョーに膝を打ってしまった。
だが実際この答えでいいのだろうか。浅田は「みんな違ってみんないい」とまでは言っていないが、それでいいのだろうか。
差異の哲学が、唯一肯定できないものがある(つまり「みんないい」ではないのだ)。それは「差異を否定する者」だ。差異の哲学は、それらに対しては闘いをやめることができない。しかし実際、「差異を肯定せよ」というのは「みんな一緒に差異を肯定しようね」ということとはやはりどこか違う。むしろより直截的に言えば「みんなバラバラになれ」という表現のほうが近い。これを「たのしい」と思えない人が多数いるのも頷ける。それでも浅田のエッセイが説いた素朴な「たのしさ」は、割と自分に刺さった。

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