(再掲)ものかたりのまえとあと、あるいはその中間
(これは2018年に投稿しその後削除してしまった記事の再掲です)
三鷹SCOOLで行われたこの展覧会/上映会の初日に行ってきた。企画タイトル「ものかたりのまえとあと」はやや込み入っており、製作/キュレーション意図がやや伝わりづらいところがあるが(あるいはそれも狙いのひとつとも考えられるが)、製作者の四人の話を聞くには、「物語」について考えて作品を作って欲しい、とのことだったらしい。これはある種の大喜利大会と言えるかもしれない。だが大喜利と違うのは、相手の出す手を見て自分の答えを発表できないこと。その結果、面白い解答が出揃った。
私がこの初日で上映を見てまず思ったのは、四者の類似点である。人は差異より類似に目がいく生き物だと言ったのが誰であったか思い出せないが、まずはそこから考えてゆきたい。本上映は四人の作者が10分から15分程度の映像を作り、それらを繋ぎ合わせてできた45分程度の作品であるが、まず指摘しておくべきは、その四作品ともがナレーションをベースにして作られているということである。それは作品を見たただちに誰もがわかることだ。トップを取る青柳菜摘の作品は、画面に表示された文字を3人の朗読者が読むという、シンプルな朗読もののように見えるが、詩的テクストの中に物語的要素が胚胎するキワキワのところを突いているようにも感ぜられるし、ところどころ表示されない文字であったり(そこを読み上げる時にわれわれは一瞬、なんというか脳が「緩む」のを感じることになる)、黒から白へと変わる背景の色であったりという割合単純な仕掛けによって、われわれは朗読劇を映像で行うということの意味を考えざるを得ない。更に上映後の青柳氏との個人的な会話によって、この作品の極めて興味深い成り立ちをも知ることができた。時間に余裕のある方は本人に尋ねてみてもよいだろう。
続く三野新の作品「アフターフィルム」は、私がベケットの『フィルム』を意識して見過ぎたせいか、はじめは正直あまりわからなかった。見る方は、敢えてそういった先入見を棄てて見ることをお勧めする。そうすると、この作品のチャレンジングさとチャーミングさに触れることができるだろう(私ももう一回見てみたい)。
清原惟の作品は、私が唯一以前から触れてきた(なおかつ愛好してきた)ものであったが、この短編に対する愛情も書き始めれば止まらない。と、書いて、早速書く手が止まってしまった。例えば、二人の女主人公のうちのひとりが「網戸」を開けてもうひとりの部屋に入ってくるあの感じ、あれが網戸でなく窓だったら、二人の関係性はおろかすべてがぶち壊しなことを清原惟は無意識的に知悉している(という私の思い込みにどれだけの人が共感できるのか、いささか心もとない)。その他にも、川べりの場面と部屋の場面の転換の自在さ、二箇所を単純な「回想する時」「回想される時」という主従関係に置かないところなどは、卓越したプロフェッショナルの腕が光る。ラストシーンも必見だ。
「新聞家」という演劇集団の演出家として活躍する村社祐太朗の作品がラストを飾る。新聞家の演劇は見たことがないので、それの映像バージョン(?)と言ってもまだつかみきれないところがあるのだが、人によっては演者、吉田舞雪の喋りを「まだるっこしい」と感じてしまうかもしれない。テロップで先に言う(であろう)言葉が予示されてしまうからなおさらだ。でもその「まだるっこしさ」に、おそらくは目を背けて変に美化する必要はないと思う。村社のチャレンジ精神が発揮されているのは間違いなくそこなのだから、われわれもとことんそのゆったりとした喋りに身を任せてみようではないか。
ここまで、若干の分量の違いはあれ、四作品について順番に述べてきた。ここからは四作品を貫くテーマについて書きたい。私が思うに重要なのは、四作品ともが、物語の「まえ」や「あと」と言うより、より厳密に言えばその中間を問題にしているということである。すなわち物語の発生地点である。「まえ」や「あと」と言った線的な時制は、(特にそれがひらがなで記されてあるあたり)、いくら与えられたお題だからとは言え、少々ナイーヴにも感じられる。そういったある種の数直線的発想は彼(女)らには根本から脱却すべきものであるようにも私には思えた。真に問題にすべきは物語が発生「してしまう」地点であり、強いて「まえ」や「あと」という言葉を用いるなら、その地点とは次元を異にする、だが漸次的に限りなく近い物語の発生「まえ」と、発生してしまった「あと」こそが問われなければならないのではないか(それを指すには「まえ」「あと」よりももっとエッジィな言葉がある気もするが、ここではその問いは開きっぱなしにする)。四人の製作方法は違えど、彼(女)らの問題意識はここにおいて通底しているように思われた。ある意味で、物語を発生させてしまうのは容易なのかもしれない。ここで本企画のキュレーターである佐々木敦が著書『例外小説論』の中で用いた文例を持ち出すのはいささか気がひけるが、一番手近にあったので、というだけの理由で用いるならば、例えば「それから彼女には会っていない」と書いてみる。するとそれだけで、「僕」がいつか「彼女」に会ったことと、すなわち「彼女」がいたこと、そして「自分」もいたことが明らかになる。だが、「自分」「彼女」と書くだけではそれは物語ではない(というかそれらは単に単語の羅列に過ぎない)。私見によれば、そのキワキワのところ(私の言葉で言えば「解像度」)を「低空飛行」し続けている劇団が、三浦基が演出する「地点」である。飛行は断じて止まってはならないのだが、物語の領域へと上昇してもいけない。それを、強靭なパフォーマンスでもってわれわれに魅せつけるのが地点の凄さなのではないか。
少々逸脱した話を戻すと、もうひとつ私にとり興味深く思えたのは、「物語の発生地点」の「まえ」と「あと」を思考するにあたって、四者ともが「音声と映像の分離」の問題に触れていた点だ。見取り図的に記せば、これはジル・ドゥルーズ 『シネマ』1巻から2巻への移行の水準、というか2巻で描かれる「純粋なる音声ー光学的映像」(とかなんとか)の水準である。私は「部分的な」哲学者を生きる者ではあるが、それを本職とする者ではないので、専門家からの意見も聞きたいところである。
さて最後に、私はこの上映を、特に1990年代前後生まれ、つまり製作者陣と同年代の人々に見て欲しいと強く思う。それは何よりも、見て刺激を受けること請け合いだからだ。こんなクソ暑い夏の日だからこそ、1000円で冷房の効いた部屋で1時間映像体験しませんかってなもんで。これは断じてふざけているわけではない。彼(女)らの作品に「90年前後生まれの徴候」を読み取り、大いなる批判文を書く猛者など現れようには、四人はわからないが、少なくとも私は欣喜雀躍する。何が言いたいかというと、とにもかくにも見ないと始まらないということであって、見れば必ず言いたいことが出てくることは、私が保証する。よき夏を!