【映画エッセイ】北野武が久石譲を得て、アンゲロプロスがエレニ・カラインドルーを得ること
北野武の第一作『その男、凶暴につき』の冒頭シーンには、有名なサティの「グノシエンヌ1番」がかかっていたが、続く第二作『3-4x10月』には音楽は用いられない。そして第三作『あの夏、いちばん静かな海。』以降、久石譲とのタッグが始まる。映画監督、たけしのイメージを、『ソナチネ』のミニマルミュージックや『菊次郎の夏』の「Summer」とともに記憶している方も多いのではないかと思う。
ギリシャの映画監督、テオ・アンゲロプロスも、『シテール島への船出』以降エレニ・カラインドルーという非常に強い抒情性を持った作曲家と組むことになる。アンゲロプロスを何本も見たことある人が、「映像で」ではなく「音で」思い出してみよ、と言われたとき、きっとエレニの曲が脳内にかかるのではないだろうか。だがそれ以前にもアンゲロプロスは『狩人』や『旅芸人の記録』といった傑作を撮っており、「映像で」思い出せと言われたらこちらを思い出す人もいるのではないかと思う。
何が言いたいかというと、A:B=C:Dの比例関係ではないが、たけしにおける久石譲とアンゲロプロスにおけるエレニは、関係性がどこか似ている気がする、というただの思いつきである。その二人を得てから、ある意味後戻り不可能な形である種の抒情性を手にしてしまったこと。広い世の中だから、彼(女)らと組む前の作品の方をこそ断固私は好む!という人があってもおかしくはない。実際ややもすると私もそちらへ片足をつっこんでいるかもしれない。とまれ意見の云々はともかく、メジャーになっていくにあたって映画が抒情的な音楽を獲得する、という構図は、他にも見つけられるかもしれない。いつまでも映画は音楽に嫉妬しつづけるのだろうか。