エッセイ「タッカー、元気かい?」
中学生の頃、タッカーという友達がいた。その頃は今と違って、(サッカー部という目立つ部活だったというのもあり)大勢の友達と広く浅く付き合うことができていたが、今思うとその中でタッカーは特別な存在だった気もする(あともう一人、チャーリーという特別な存在もいた)。タッカーは私にBUMP OF CHICKENのアルバムを何枚も貸してくれた人で、そう書くと90/91年生まれ世代にとっては至極ふつうの中学生に思えるが、二人はもっとディープな趣味も持っていた。漫⭐︎画太郎の『地獄甲子園』というマンガがそのひとつである。この作品がマンガ史においてどう位置付けられているのかは寡聞にして知らないが、とにかくシュールで特殊な作品だということは言えよう。中学生には色々と刺激が強すぎる。それを二人でキャッキャ言いながら読んでいた。それから、当時流行っていた「細かすぎて伝わらないモノマネ」では、二人揃ってサワー沢口の「リアルに吐く人」推しだった。他にはくじらの「イカ釣りスターシリーズ」などにも傾倒していたが、なんといってもサワー沢口であった。それから、当時から学内にチラホラいたヲタッキーな生徒たちのことを、直接的に揶揄したりするのではなく「人の子ら」と名づけて二人の中で愛でていた。これは「大地讃頌」という曲の中にある「人の子ら土に感謝せよ」というフレーズの中からとったものだ。
こんな昔話のどこに感動しているかと言えば、それらが、約20年後の今私が一生懸命やっている事柄とモロに地続きだからである。私の名前「げんきなおともだち」がある種の生きづらい人たちへの人間讃歌の概念であることは別記事で詳述しておいたが、それの原型がすでに「人の子ら」にある! そしてこのnoteではまだ「旨味」概念については充分な考察を加えられていないが、まあそれは要するに物事の(人とちょっと違った)「面白ポイント」だと思えば、「細かすぎて〜」の中でサワー沢口にあれほど傾倒していたのも完全に旨味の目だ(もっと「顔」なスターたちは別にいただろう)。『地獄甲子園』の持つシュールさと不条理さは、もしかしたら自分の基盤として根を張りつづけてるかもしれない(世界全体を混ぜかえす精神?)。
そんなわけでタッカーの存在には今更ながら感謝しなければいけない。彼とは中学卒業後交流がなくなってしまった。そもそも同窓会なるものに一切出席したこともなく、大学入学とともに闇堕ちしてしまった私である。そんな闇堕ち期にタッカーのような理解者が一人でもいれば…。大学での私の理解者はY君一人で、彼とは未だに一年に数回連絡をとる。もっと時代が下ると、げんきなおともだち最大の理解者も現れることとなるのだが、それはまた別の話。今回はタッカーの現在の健康と活躍を祈念して〆よう。