古田新太さんの演技論に感動した
だいぶ前の話になるが、乃木坂46のオールナイトニッポンに俳優の古田新太さんがゲスト出演していて、そこで述べられていた彼の演技論に非常に感銘を受けた。以下、当時の記憶をもとにして、私の言葉で再現する。基本的に箇条書き形式にして、私が言葉を補いたいところはカッコで補う。
・役者がやるべきことは、監督の演出に従うこと
・そのために自由自在に動かせる体を持っておかなければいけない
・そのコンディションづくりをやって、あとはひたすら指示を待ち、それ通りにするだけ
・自分で感情を込めて芝居をするやつが一番嫌いだ、セリフは棒読みでいい
(ここで私はヒッチコックとポール・ニューマンの逸話を思い出す。ヒッチコックが「ここからここまで歩いてくれ」と演出すると、ニューマンは「どんな気持ちで歩けばいいんですか?」と質問したそう。これに呆れたヒッチコックは「“ただ歩く”こともできないのか」と憤慨したそう。古田もおそらくこういう役者が一番嫌いだろう)
・高校生の時に、周りにはタバコを吸ったりバイクで暴走したりするいわゆる「不良」がいた。でも古田は全然そんなのをかっこいいとは思わなかった。そんなときミュージカルを偶然見て、最高の褒め言葉として「バッカじゃないの!?」と感激したらしい。おそらくそこに真の不良性(?)を嗅ぎ当て、自分もその道へ進もうと決意した。
以上が概要である。
メソード演技的な「お気持ち主義」は今の俳優界にもおそらく多少ははびこっているのだろうか。私は全然門外漢で内部事情はわからないが、古田の口吻を見るにそれは感じる。そういった態度を完全に排して古田は、「現代映画」の立場に立とうとする。「現代映画」とは、簡単に言えば気持ちより先だって行動がある映画のことだ。ユスターシュ映画をまとめる廣瀬純の言葉を引こう。
「古典的な映画では、まず、登場人物たちに何かやりたいことがあって、それに応じて身体が動かされる。ユスターシュは身体の動きをやりたいことに結びつけません。彼の関心は、欲求や有用性から切り離された身体の動きにあるわけです」(須藤健太郎『作家主義以後』より)
これは廣瀬や、この対談相手の須藤や、三浦哲哉、濱口竜介、黒沢清らの間では「前提」として共有されうる事柄だが、古田が「むかついた俳優」の名前を(ときにピー音にかき消されながら)言ってやろうとして乃木坂の久保史緒里を困らせていたのも、やはり俳優界にお気持ち重視の人が多いからだろう。繰り返すが私は内部事情は全くわからないが、こういう本音トークを介して役者界が少し覗き見れたような気もした。古田新太さんの出る作品は今後も見ていきたい。