「批評」って言葉は実際どんな意味だと思いますか?
私は10代後半から批評を学び、20代の頃には批評家養成講座に通っていたから、「批評」という言葉は、寿司屋にとっての「シャリ」とかと同様くらいに日常に密着したものであった。批評書と呼ばれるものも、何百冊も読んで育ってきた。
だが大方の人はそうではないだろう。「評論」と「批評」の区別について特に自説を持ち合わせない人はほとんどだろうし、ひどいときには「批評」と「悪口」すら同じものと思っている人だっている。そういう人も含め、今一度「批評」っていう言葉とはなんだろう、と考えてみたい。
ただあらかじめ言っておくと、ここでは唯一の正解を出したりはしない。その代わり、ふたつの角度からのアプローチをしてみようと思う。ヨーロッパ語系統からのアプローチと、漢語系統からのアプローチがそれである。私もつい数日前まで前者しか頭になかったので、これを書くことは私自身にとっても頭の体操である。
さて、批評の語源はギリシア語のkrinein(クリネイン)であるとよく言われる。これは何かを「切り分ける」という原義をもつ言葉だ。切り分けられることによって、よいものとわるいものが選び出される。それが今風の「批評=評価、選定」的なニュアンスにつながる。これが英語やフランス語に持ち込まれると、頭文字kがcになり、その語(英語ならcritic)はcrisis危機やcriterion基準と言った語彙と同系列に置かれることになる。
さてここまでがヨーロッパ語系列の話である。批評家の渡部直己はーー自身が仏文科の出でありながらーー『日本小説批評の起源』ではこれとは違ったアプローチをとると宣言してみせる。以下に引こう。
「批評」の一語にまつわる欧米風の含意は意図して一場の後景に鎮めてあることは、あらかじめ伝えておくべきだろうか。何事かの「危機」や「臨界」の異称として生起する「批評」。そうしたニュアンスを強調することは、この場ではかなり慎まれている。
対して、同著で(そして最新刊で)全面的に参照される金聖嘆のもつ中国語的コンテクストからのアプローチを紹介する。
すなわち、本文中の着目すべき語句や文章に傍点(「批点」)を施し、その逐ーについて注釈的コメント(「評点」)を挿入すること。
シンプルと言えばシンプルである。私なんかが日々noteでやっていることに近い、と言っても牽強付会ではないだろう。今風に言えば「引用とコメンタリー」だろうか。これが「批評」の漢語的基幹を成すと言われると、なんだか元気が出るのは私だけだろうか。
いずれにせよ、「批評」とはもっと超訳してしまえば「面白がること」だと思う。人生、面白がらなきゃつまらないし、面白がる対象は、口を開けたヒナのごとく待っていれば与えられるのではなく、自ら捕まえにいくべきだ。それが古典であればあるほど得られるものは豊かだ、と最近の私は思うが、別にヒットコンテンツでも構わない。ともかく人と同じように面白がっても仕方ないので、自分だけの面白がり方をひとつでもいいから探そう!