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世界に意味づけをするのは命あるもの。

わが家の犬、ボレ。ときどき見せるボレの行動で、好きなことがある。

それは、救急車(または消防車)のサイレンに反応して、ウォオーーーンと遠吠えをすること。

ピーポーピーポーの音程に、うまいこと重ねるようにして、ウォオーーーン、ウォオーーーンとたいてい3回。警戒吠えや要求吠えのときの体の動きとは違い、喉元をすっと伸ばし、斜め上を向いて声を出す。横からシルエットで見ると、まさに漫画などでみかける“月夜の狼”の姿そのものである。

ボレもやっぱり犬だったのねぇ~と野生を感じていると、3回めの姿でずっこける。

はじめの2回は、ウォオーーーンと遠くまで響くいい声で鳴くのだが、3回めは、ウォッウォッ、ウォンと絞りだす感じのダミ声になる。声の不調にともない、アゴをつきだし、どうも納得がいかない表情。ときに、ウッキャーーン!といった感じの金切り声のこともあって、その姿は「うまく声がでーん!」とかんしゃくを起こしているように見えて、思わず笑ってしまう。

このボレの行動、名付けて、野生とペットの間、である。

昨日の散歩でも遠吠えをした。
いつものように笑ってボレを眺めながら、ふと思った。

将来、ボレがこの世からいなくなった世界で、救急車や消防車を見かけたら、きっとわたしは心のなかでこっそり笑うだろう。不謹慎でごめんなさい。でもきっと、わたしはその瞬間にボレの3回めのダミ声を思い出して、ムフフッとなると思う。


昨日は月命日だった。こちらはみんな元気にしているよ、と伝えたいから、このはなしを書こうと思う。

1ヶ月前、友人のワンちゃんが亡くなった。名前はろくちゃん。ご近所さんで、とくにコロナ渦の自粛要請で心細かったとき、しょっちゅう一緒に散歩した犬仲間だった。亡くなる4日前も一緒に散歩した。

まだ5歳で、友人もわたしも病気のことなんて頭に1ミリもなかった。実際、1週間前まではとっても元気で、病気が判明してからも亡くなる当日の朝までちゃんとご飯を食べて、そして昼すぎに容体が急変し、その日に夕方4時、お空に昇っていってしまった。

今でも散歩をしていると、ろくちゃんを連れた友人が向こうから手を振っているのが見える。おやつをめがけて寄ってきてくれたり、おやつをくれるおばあちゃんに一目散で駆け寄っていたり、苦手なワンちゃんに勢いよく吠えたり。そのすべてのろくちゃんの映像が、今もちゃんと見える。

ちゃんと見えるのに、現実にろくちゃんはいない。そのことがすごく悲しい。

ろくちゃんが亡くなって気づいたことがある。命が消える、ということは、その命の周りにあった関係性も丸ごと無くなる、ということだった。たとえば、ろくちゃんと一緒にいたときのパパの幸せそうな笑顔、ろくちゃんに話しかけるときのママのやさしい声、ろくちゃんと一緒に走ったあとのお姉ちゃんのリフレッシュした顔。それらも全部、もう2度と見ることはできない。それがとても悲しい。

でも、ね。悲しいというのは、同時に、そこにやさしさや幸せがあった証明だ。それは間違いない。

そして、ろくちゃんがくれた幸せはたくさん、たくさんある。たくさんありすぎて、ここに書こうと思ったら、なんかもうしょうもないことしか思い出せない。鶏肉で作ったおやつはそんなにおいしいもんなんだね、とか、サクラの木の枯れ葉は、いい匂いの隠れ家でクンクン天国なんだね、とか。文字にしたら、たわいもないことだらけだけど、そんな小さな幸せがたくさん周りにあることをろくちゃんは教えてくれた。

ただの枯れ葉で覆われた街路樹が、大切な思い出のある小道になった。ただの鶏肉を焼いたものが、おいしい宝物になった。それは全部、ろくちゃんのおかげだ。

あぁ、そうか。そういうことか。この世の中に意味づけをするのは、命あるものたちなんだね。

出会う前と今。まわりの景色自体は何も変わっていないのに、それが違って見えるのは、命と触れ合ったから。

ボレの3回めの遠吠えで救急車のイメージが変わったように、じぶん以外の命とともに過ごした時間は、世界の見え方を変える。それこそが命の尊さなのかもしれない、そう思った。

ありがとうね、ろくちゃん and ボレ。

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2019年の春、サクラの木の下で。撮影:ろくちゃんパパ

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