第4章 / 古い記録が新たな記憶を創る魔法.
4−1
オープンソースの時代
今のレコードメーカーは、オリジナルのコンテンツ(音源や映像)をマテリアル化することで、X次創作を通じた共創コンテクストが生まれやすい状況を促進している(※)。
高性能なコンテンツ(アーティストやエンジニアが高い技術を活かして生み出す音源)だけではなく、それを取り巻くコンテクスト(後述する進化型リスナーの拡散行動や交流などで生まれる文脈)の上質さが「ブランド」を構築する場面が増えている。
品質だけでなく、プロセスの質もウォッチされる時代––––
オフィシャルMVをはじめ、レコードメーカーが発信する独創的なコンテンツだけでなく、不特定多数の進化型リスナー(※ユーザー)が共創するコンテクスト(民主的なコトやトキ)を演出するのが、「A&R(アーティスト・アンド・レパートリーと呼ばれるディレクター)」の仕事だ。
レパートリーのほとんどは、音楽(という芸術)に関する技術や専門知識に依るモノゴトではなく、音楽ファンとしての経験から生まれるモノゴトだ。
だから、必ずしも楽譜を読めなくていいし、歌やダンスに精通する必要もない––––自分の好きな音楽やアーティストをとことん愛した経験こそが物を言う世界––––
高い学歴に越したことはないが、
それよりも深く長いファン歴が
重視されるかも知れない時代––––
これはレコードメーカーに限らず––––
・自動車メーカーであれば––––
「車というモノと車に乗るコトやトキが好き」
・飲食店であれば––––
「飲食物を飲み食いするコトやトキが好き」
・エンタメ業界であれば––––
「作品とイベントが好き」
など––––多くの企業において、自社の「商品」や「サービス」、あるいは、それらを支える「技術」や「研究」に、愛と情熱を抱く人材が求められている。
マーケティングの真髄は、市場調査(リサーチ)ではなく、市場の創出(クリエイション)にあり––––モノづくりだけでなく、それを活用して生まれるコトやトキ =「体験価値」の提案が欠かせない。
今を生きるカスタマーは、「ストーリーテリング(されること)」= 一方的な情報の受信よりも、「ナラティヴ」= 顧客同士が生の情報(リアルタイムな意見や批判)を交わし合うイベントを求めており––––
決して、軽視してはいけないのが、企業側の提案を––––
「誰が、物語るべきか?」
だ。
その答えを、いちばん、よく知っているのが、自社の商品やサービスのファンであった人材で––––
彼らは、きっと、こう、即答するだろう。
「私(ファン)です」
と。
カスタマーは、企業が語るストーリーには、共感(一方的な受動)という機能でしか応えられないが、自身が物語るストーリーには共創(メタ・インタラクティヴかつイマーシヴな能受動 = ナラティヴ)という機能を働かせる。
前章に書いた「ビックリマン」ムーヴメントは、まさにその好例。
ストーリーテラーは、メーカーでも、出版社やテレビ局でもなく、小学生というカスタマー(不特定多数のファン)だった。
昨今、語られる「ファンダム(ファンが築くコミュニティ)」の「ダム」は、「キングダム(王国)」ではなく「フリーダム(自由)」と心得るべきだ。
それは、民主的なコミュニティであらねばならない。
企業が発したメッセージに共感するだけでなく、自分もそのメッセージを体現する共創の輪(デモ行進を想像してみるといい)に参列することで、「ブランド」という信頼は、感じる概念ではなく、没入する体験に変わる。
ファッション界のハイブランドの多くはこれを熟知しており、いちばんの広告塔は、表参道のビルボードやテレビCMではなく、そのブランドを着て気高く歩く一般の人々だ。
インフルエンサーやファッショニスタが歓迎される理由は、彼らが企業側ではなく、どちらかというとカスタマー寄りの「ファンのプロ」だからだ。家電好き芸人がキュレーションされるのも、同じ現象。
自分も参加する行進の輪が、たとえ、同じところをグルグルと回るようなものであっても、不特定多数の参加者の予想できない行動や判断によって、常に体験価値を変えながら、そのサイクルをより広大な面を持つフィールドへと成長させている。
その代表格「パタゴニア」は、衣服という「商品」ではなく「理念」を売っている。
彼らは、有名な登山家のボランティア活動を追ったドキュメンタリー映像を制作するのではなく、一般のファンたちが集い、パタゴニアを着て、実際に山を登り、ゴミを拾う参加型イベントで、ブランド価値を共創するという没入的でイベンチュアルな(不特定多数が参加し、良い意味で何が起こるか分からないイベントを用いた)マーケティングを行なっている。
特別な個人(例:有名なアルピニスト)が一方的に発する受動型のステートメントではなく、不特定多数のアノニマスが集まって体現する没入型のムーヴメントを仕掛けるコトで––––パタゴニアというブランド(あるいは、パーパスと呼ばれる存在意義 = 正義)を––––企業側が押し付ける物語ではなく、ブランドを支える人々が物語るイデア(理想)として機能させている。
カスタマーがパタゴニアというブランドを着る価値の一部は、メーカーではなくカスタマー自らが生み出しているのだ。
ナラティヴ・マーケティングというのは、そういったイマーシヴでイベンチュアルな参加型の仕掛けによってインタラクション(SNS上のカキコミや教室やオフィスでのクチコミ)を可視化/可聴化し、同時多発する多方向なリレーションを活性化させるコトを指す。
そこで大事なのは、市民革命で、特権階級から多くの権利が解放(譲渡)されたように、エンパワーメント(権限譲渡)という意識だ。
企業に属するビジネスマンは、かつての武士や騎士のようにロイヤリティ(忠誠心)があればあるほど、企業という王様(あるいは領土)が保有する資産を守ろうとする。
ときに、それは、過保護であったり、保守的になる。
テリトリーにある資産は、企業(王様)のモノだと考え過ぎる。
それを全面否定するわけではないが、ナラティヴ・マーケティングからすれば、それは誤った判断だ––––かといって、すべてを明け渡せと言うつもりもない。
グッチは、元々、アンオフィシャルに2次創作を行っていたグッチ・ゴーストというアーティストを排除するのではなく歓迎した。オフィシャルに彼とコラボレーションを行なったのだ。
昔のハイブランドからすれば考えられないことだが、世界最高峰のブランドですら、このように自社が持つブランドという概念は、市場とシェアする共有資産だと理解し、実践しはじめている。
僕は、ここまで紹介した偉人たち––––エジソンも、ヒルも、タゴールも、タレブも、シュトッカーも、同じ1つの哲学を語っているように感じている––––「集合天才」も、「月は人々の心にあるコト」も、「反脆弱性」も、「音楽から始まったメディアアートの真髄」も、そして、僕が彼らから学び思い描いている「ナラティヴ」も、そのコアにあるのは同じ理想だと思うのだ。
それは、とても一言では表せない––––だから、僕は、何十万文字か書いて、それを伝えようと思ったのかも知れない。。
【 エジソンとヒルの集合天才 / タゴールとアインシュタインの月の話 】
【 タ レ ブ の 反 脆 弱 性 】
【 シ ュ ト ッ カ ー の メ デ ィ ア ア ー ト 論 】
その断片として、
「forgive」と「forget」という
大好きな英単語を紹介したい。
「許す」と「忘れる」––––
そのスペル(綴りという意味もあるが「魔法」という意味もある)は、
for give = 与えるために––––
for get = 得るために––––
人は、誰かに与えるために許し、何かを得るために忘れる––––あるいは、許しを誰かに与え、忘れることができる––––昔からある習わしを適度に忘れ、かつて冒涜と思われたコトを許す––––王様の特権が、民主的になったように、企業の資産を適切に市場に譲渡し、民主化していく––––
––––自らが独占すべき固有資産と思い込んでいるモノゴトを、ソース(源)として解放(オープンに)する––––「 for give & get 」という魔法を検討すべきだ––––どんな業界にも、どんな企業にも、きっと、どこかに、そんな余白が隠されている。
そして、それは、ストレージの地下深く、誰からも忘れ去られ、埃を被っているかも知れない。あるいは、身近にあふれすぎて、見えているのに見ようとしていないだけのことか……
4−2
古いモノを新しいコトにする魔法
音楽業界のアーカイヴ(過去にリリースした音源や映像)は、閉ざされたリレーションに置かれたままでは単なるオブジェクト(商品在庫)やドキュメント(過去の記録)に過ぎず、新たなプロセス(顧客の記憶に新たに残るような時間)を生むコトは、ほぼない。
それを、オープンソースな「マテリアル(素材:加工する際の材料となるモノ)」として再びリリース(解放)= マテリアライズ(素材化)すれば、それは新たなプロセスを生むファクターとなるだろう。
その幾つかは、むしろ、新譜(初めて音源化された音楽)よりも、生産性の高い新作(再生)として、世代を超えて受け入られることさえある。それは、新規では絶対に持ち得ない「歴史」や「伝説」といった「物語り」のエレメントをすでに持っており、懐古的なリスナー(音楽を聴く顧客)だけでなく若い新規ユーザー(音楽や動画アプリで遊ぶ顧客)に対して、ゼロからプロローグ(前提となる設定や物語 = コンテクスト)を刷り込む必要がないからだ。
前提(ナラティヴを起こす要素の1つである世界観)という共通思想/共通言語(エレメント)が出そろった段階から、大喜利のような感覚でモノを描くコトが可能な上、一巡目で(オリジナルのリリース時に)大きな成果を挙げた = ヒットしたアーカイヴに絞ることで、それが新たに生むコンテクストが成功するかどうかの確度は上がる。
「過去のアーカイヴも、マテリアル(共創のための素材)としてであれば、再び新作としてリリースできる機会を有する」という解釈1つで、それは、何度でも未来に繋がるナラティヴなコンテクストを生む可能性を持つのだ。
古いジャズが、ヒップホップのトラックメイカーにとって、重要なサンプリング素材であるコトなどは、まさにその代表例と言えるだろう。
僕の先輩の金言に「(顧客が)初めて知ったその日が、リリース日」というのがある。
企業側は「いつ、つくったか?」「いつ発売したか?」を気にするが、カスタマーにとっては「いつ、知ったか?」の方がはるかに重要であり、それによって旧作(クラシック)もブランニューな新曲になり得る。
たとえば、TikTokでは、何十年も前にリリースされた「め組のひと」という楽曲で「踊ってみた」ムーヴメントが起こった。それは、楽曲を聴くという「鑑賞」が中心の現象ではなく、その楽曲を使って踊るという「ジュークボックスのような体験」だった。
ただし、それがきっかけで、カラオケで「め組のひと」を歌う若者が増えたのは確かだし、その内の何割かは、青春の1ページを彩ったその経験を通して、楽曲の末永いファンになっていくかも知れない。彼らにとって、それは、まさに、遅れて来た新作だったはずだ。
これらの現象は、音楽業界がコントロール(プロモーション)して生まれたコトではなく、ユーザーによって、自発的に拡散されていったコトだ。
一方で、もし、これをレコードメーカーが許さず、権利侵害で訴えたり(forgiveしなかったり)、楽曲をTikTokで使えなくしたり、カバーできないようにしていたら(古い慣習に固執し = forgetせずに2次創作の権利を解放していなければ)、生まれなかったコトでもある。
アーカイヴ(過去の記録)が、新たな記憶(次世代の体験価値)を生むためには、最低限、きちんとリリース(解放)した上で、「2次創作に使ってもらって構いません!」「むしろ、そうして頂けると嬉しいです!」と、マテリアルとして使用されることを歓迎する意向を表明しておくことだ。
そうして、やっと、アーカイヴがリバイバル(再生)する可能性が生まれる。
ぶっちゃけ、仕掛ける必要はなく、笑顔で解放しておくコトしかできない場合が多い。あとはカスタマーが決めるコト––––僕らは、かつての禁止を禁止する姿勢が問われている。
エンパワーメントとは、自制や内省を促す、
自己否定的な作業でもある。
4−3
コンテンツというのも
マテリアルな用語なのかも知れない
ドキュメント(記録)が完成した瞬間に、
コンテクスト(文脈)がデッドするのではない。
コンテクスト(物語)がデッドした瞬間に、
コンテンツ(作品)がデッドする。
とにかく、永遠にプロセスにあり続けようとするアプローチの話が多い本書だが……1万年前にサクラダファミリアが完成し、地球上のすべての謎が科学的に解けてしまいそうな遠い未来の瞬間でさえ、永遠にプロセスであり続けようと「変化(という名の進化)」を欲し続けるのが、そもそも人間なのだから––––しょうがない。
20世紀のテクノロジーは、インダストリアル視点のモノが多く、とにもかくにも効率良くプロダクトにして大量生産するコトに重きが置かれた––––その結果、音楽業界に生まれた音源というビジネスモデルは、音楽を固定的(ナラティヴの喪失)にした反面、それを記録する際のプロセス(レコーディングや撮影)や危篤を視聴する環境(スポティファイやYouTubeなどのプラットフォーム)に、ナラティヴなコンテクストを補填する機能を持たせるコトで、文化的にも、経済的にも、数多くの成果を上げてきた。
その中でも、原盤制作(音源化・映像化)文化の何よりも素晴らしい功績は、リスナーが音楽を楽しむ場面や場合の選択肢を増やしたコトだ。
カーラジオやウォークマンなどは、固定されたパブリックなコンサートでは成し得ないモバイル(移動)できるパーソナライズされた音場を提供してくれた。そうして、レコード(音源)やビデオ(映像)というプロダクトそのモノ(物質)ではなく、周囲のコトがコンテクストを生んできたのが20世紀型の音源ビジネスの肝だ。
もしかすると、コンテンツという言葉でさえ、
音楽業界では、プロダクト(商品)としての価値を上げるために––––
・CD = 物質的なメディアであり流通パッケージ(モノ)
・収録されている目にも見えず手にも触れられない音楽 = コンテンツ
・周辺の文化(コト)= コンテンクスト(文脈)
を、三層のレイヤーに分解せんと重宝された用語だったのかも知れない。
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レコードメーカーがYouTubeにアップするコンテンツは、映像(ミュージックビデオなど)だ。本来、可変的なコンテクスト(ナラティヴ)を有する音楽(の生演奏)は、録音あるいは撮影されるコトで、記録として固定される(ライヴで交わされる演者と観客のメタ・インタラクションによって生まれるナラティヴなコトは、一切、消滅する)。
ひとり残らず、すべてのファンが、その記録(例えばライヴDVD)を、個人で鑑賞するだけの「閉じた系のリレーション」に封じ込めでもしない限り、この段階で、周囲のコンテクストまで完全にデッドすることはない。
実際、インターネットが登場する以前でも、リリース翌日の教室で、同じ作品を観た友人同士が感想を語り合っていた。それが、今は、YouTubeにその映像がアップされた途端、世界規模で、リアルタイムな感想のやり取り = メタ・インタラクションが始まる。
その差は、インタラクションが交わされる広さスピードであって、インタラクションの有無ではない。
ナラティヴは、昔から起こってはいた。教室であろうと、YouTubeであろうと、インターネットがあろうがなかろうが、コンテンツ(記録された映像)に対する民主的なコンテクストは必ず発生してきた。
ただし、かつてのそれは、限られた一部の地域で時間差を伴ったやり取りで、民主的な評価が下されるまでには一定の時間を要した。だから、共創コンテクストがデッドしたとしても、それを知らせる媒体もなく、コンテンツは、ある程度、緩やかにデッドしていったはずだ。ビックリマンのようにコンテクストの明確な終わりをマスメディアで一斉投下しない限り––––
一方、現在では、インターネット上でリアルタイムに民主的な評価が数値化されるので、もし、YouTubeで、再生回数・いいね!・コメントが、まったく増えなくなれば(全停止はさすがに非現実だとしても、動きが鈍くなれば)、すぐに一目瞭然となる。
共創コンテクストのデッドが、常に可視化され、カスタマーに届きやすい状態に置かれているのだ。
人々は、コンテンツに対する「民主的なコンテクストの共創が持つ熱量が、今、どのような状態か?」を、いつでも、どこからでも確認できる。そうして、固定的なコンテンツに対する反応が一切なくなったとき、つまり、共創コンテクストが更新されなくなったとき、コンテンツは、ただの不変の記録へと帰し、ビジネス的にも、文化的にも、デッドする。
コンテンツがデッドするからコンテクストがデッドすると思っている人も多いが、実際には、コンテクスト(共創される物語)のデッドが、コンテンツ(アーティストが独創したオリジナル作品)をデッドさせる場合も多い。
記録に近い「日本書紀」を知る人は少ないだろうが、口承のキュレーション要素が強い「古事記」の方は、今もなお瑞々しいコンテンツとして成立している。
なぜなら、そのコンテクスト(物語り)は、今なお、自由に、民主的に、更新され続けているからだ。
古事記の一節に過ぎない「因幡の白兎」は、絵本になって子供に伝わり、前述のビックリマンにも、古事記の神々にインスパイアされたキャラが数多く登場する。このようなマテリアライズ(リバイバル)がきっかけで、オリジナルの「古事記」に辿り着いた人も多い。
日本人であれば誰もが、一度は「黄泉がえる」という言葉を聞いたことがあるだろう。このように、古事記は新たな物語に数多くサンプリングされている––––
––––日本におけるマテリアライズの始祖ともいえる存在。
本筋でなくとも、そこから派生した共創コンテクストがデッドしなければ、オリジナルのコンテンツは、いつまでも色鮮やかに生き続ける。
コンテンツを長期に渡り活性化していくのは、太古の昔「噂」が「神話」となって以降、ずっと、民主的に語り継がれるナラティヴなのだ。
4−4
新世界
20世紀の音源業界は、「技術革新」や「パラダイムシフト」に対峙する初動時、決まって、臆病で、慎重な姿勢を貫いてきた。
無料の音楽聴取を可能にしたラジオ局に不売運動を起こしてみたり、コンピレーション・アルバムを民主化した貸しレコード/レンタルCD店やカセットテープを敵視したり、ナップスターを徹底的に排除し、YouTubeへのミュージックビデオのアップロードを禁じたり……
結果、叩き過ぎて渡れなくなった石橋は輝かしい未来へは繋がらず、業界外に「決済システムによる顧客の囲い込みを音楽で行う」という大きなパイを取られ、それに内包される形で「音楽のデジタル流通におけるエコシステム」という肝心さえ彼らの手中に収められた。
そんな時代も、じきに、終わる。少なくとも、そう、感じる。
彼らのルールでも、民主的な社会を止められなくなったからだ。
音源を売るのではなく、音源をマテリアルと捉える––––
音源を聴くコトから音源で遊ぶコトへ––––
大切なのは、コンテンツだけではなく、リレーションとコンテクストを含めたプロセス––––つまり、エクスペリエンス––––
音源リスナーによる鑑賞だけではなく、音楽ユーザーによる体験––––
レコードメーカーの「A&R」は、長年、使い古されたこの役割に対する概念を、「アーティスト・アンド・レパートリー」+「アーティスト・アンド・リレーションズ」へと進化させねばならない。
物事のレパートリーと生み出すだけではなく、ファンとのリレーションシップ(関係性)を開発する役割へとシフトすべきだ。
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【 音源や映像を流通するコピー産業の脆さが描かれた映画 】
「MIXED BY ERRY:俺たちの音楽帝国で赤裸々に語られる海賊版」
「P2Pソフト:Winnyは違法だったのか?」
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音源を、聴くための物事/知るための物事/買うための物事をつくる仕事と、音楽の、聴き方/知り方/買い方を演出する仕事は、まったく異なる。
これは、レコードメーカーに限ったことではなく、多くの企業で起こっているパラダイムシフトだ。自動車業界に置き換えてみると、車に乗るための物事、車の情報を知るための物事、車を買うための物事への従事と、車の乗り方、知り方、買い方を提案する業務では、必要とされる能力も思考も大きく違ってくる。
昨今の大きな契機として、COVID-19による世界的なパンデミックがあった。
反脆い(※)思考が重要だと、世界は気付かされた––––
【 反脆いという哲学を詳しく知りたい方は第2章を 】
不謹慎と思われるかも知れないが、反脆さという面からは「新型コロナウィルス」という脅威を捉えたとき、それが後世に残すレガシーは「ポジティヴ」であるべきだ。
悪ければ悪いほど、良くなる状態を目指すことこそ、
供養や追悼だと(綺麗事でも)僕は、そう、思う。
オリンピック・パラリンピックが開催都市に残すレガシーの基準に「前向きで無形の意図的なレガシー」というのがある。それに準えば、今回のパンデミックが世界に残す優良なレガシーの1つは、あらゆる業界で、今後、加速するであろう「マテリアライズ」に違いない。
音楽業界でいえば、これまでは「オリジナル作品(1次創作)」を、いかに、広く知らしめて、多く売るかにフォーカスがあった。しかし、パンデミックの影響でインターネット上という仮想世界内でのコミュニケーションが加速したことを受け、1次創作を売りモノにするだけではなく、カスタマーに向けて、インターネット上(仮想世界)の「素材」として無料開放(頒布)する動きに注目が集まった。
ただし、レコードメーカーが「マテリアライズ」という事業に着手しはじめたのは、メトロポリタン美術館が40万点もの作品画像を無料公開したのと同じ、コロナ禍が起こる数年前のことだ。
もちろん、それ以前から、クリエイティヴ・コモンズ・ゼロ(著作権によって保護されているコンテンツにおける権利収益を放棄し、パブリックドメインに置くことで、他者との共創 = コンテンツの再利用や機能拡張を加速させる取り組み)は存在し、素晴らしい社会貢献を生んでいた。
一方、レコードメーカーの「マテリアライズ」は、あくまでビジネス上のマーケティング戦略を指すものだ––––それでも(権利を放棄して社会を良くしようというような寛容でピュアな善意ではないにしろ)自分たちだけが利己的に経済面で生き残る手段ではなく、権利保有者(コンテンツホルダー)として、より楽しい社会をつくるためにできるインスパイアとして、利他的な許容(forgive)を促す限定的な厚意(思いやり)くらいは持っていた。
コロナ禍を経た現在、公共の場における「社会的マナー」は、知らず知らず、大きく変容した。咳をすることは(ゲップやオナラと同じようくらいとは言わないが)失礼や非常識と判断される度合いや場合を増長させたし、リモート会議も一般化した。2拠点生活も市民権を得はじめている。
どこでもドアは実現しなくとも、どこでもドアと同じ効果を持つソリューションや行動が社会にあふれ、モビリティ業界に大きな影響を与えた結果、移動というプロセスを演出する鉄道会社は珍しい存在ではなくなっている(第1章参照:あれを書いたのは2012年のことで、その頃には、あのようなフォーカスを持つ鉄道会社は珍しかった)。
そんな中、音楽業界において、マテリアライズ(1次創作の素材化)という発想が、大きく勢力を伸ばした。
「オリジナル作品(1次創作)」を売りモノにはせず、まずは、一般に広く無料(あるいはタダ同然で)開放し、2次創作を加速させることで、インターネット・ミーム(大規模な共創)をあふれさせ、その一部をオフィシャル扱いするコトで行うビジネス「も」重要視されはじめたのだ。
他者が創作に参加する幅を残した作品(未完成な音源や映像)をリリース(本来の意味通り開放)するコトで、多様な共創を促す新しいビジネスが多くの流行を生み出している。
この新規事業(あるいは新たな目線)の大きな利点は、従来、発売前に可視化されるコトなどなかった予測不可能で不確実な市場からの反応を「未来に先回りしたような感覚」であらかじめ把握した上で、オフィシャルの商品を発売できるコトだ。
これまで「1次創作」と定義されていた「オリジナル」作品を、最初から「素材」として開放し、それを使った「2次創作」を促すことは、今の時代、インターネットを通じて全世界に公開される(デジタライズされ、コピーが無限に繰り返されていく)コトと同義だ。
かつて、レコードメーカーがもっとも恐れたコト––––
––––しかし、現在、レコードメーカーやアーティスト本人は、いかにそのミームが拡張(多くの人が参加)し、深化する(2次創作だけでなく3次や4次というふうにより密度の濃い共創が繰り返される)かに注力している。
そうして、大量かつ上質なミーム(幾次創作)が世にあふれればあふれるほど(昔の尺度では悪くなればなるほど)、オフィシャル商品を発売していない段階で、市場の反応が可視化されていく(市場の透視という面では良くなる)のだ。
「いいね!」の数や「コメント」の質を鑑みた上で、人気のあるX次創作のみをキュレーションし、ビジネスしていくコトこそ、音楽業界の新たなビジネスの潮流だ(例えば、YouTubeにあふれたミームの広告収入の一部はすべてアーティスト/レコードメーカー/音楽出版社の利益となる)。
実際、TikTokで、未完成の楽曲(たとえば、Aメロのみ)をいくつかアップして、その中で人気の高かったものだけをフル尺で制作し、リリースしていくようなコトも散見されている––––そんな「Co-creation Culture(共創文化)」を活用したビジネスにおいて、まず啓蒙すべきは、頭の中にある従来のタイムライン(ロードマップ)/古いマナー/悪い習慣をアップデートすることだ。
僕は、もはや「1次」ではなく「ゼロ次創作」という意識で、自らのアクションをチェックするようにしている。
これまでは1次創作の途中段階に過ぎなかった「素材(プロセスの場合もある)」を「ゼロ次創作」と位置付け、作品が完成していない段階から一般に向けて広く公開し、インターネット上の素材を使ったC2Cコミュニケーション、いけるなら「X次創作」の可視化までをも煽り、市場、延いては、社会からの反応を鑑みた上で、初めて1次創作(オフィシャル作品)を発表していくような流れを心掛けている。
当然、X次創作そのものを、オフィシャル化するコトも検討する。
「0」→「1(オリジナル&オフィシャル)」→「2~X」だけでなく、
「0」→「2~X」→「1」という順序も、念頭に置いておくべきだ。
もっと、具体的に書くと––––かつては、アーティストとレコードメーカーだけが知っているべきと決め付け必死に隠していたコト––––僕らだけが知っていた方が良いと判断していたコト––––完成した状態で情報解禁するコトがすべてと、リークを敵視していたコト––––勝手に僕らだけで決めていたコト––––の中から「実は、あらかじめ市場に投げかけた方が良くない?」という部分を小さく切り出していくのだ。
目立つところで言えば、前述のAメロまで先に発表するコトだったり、(かつてはプロデューサーが独断と偏見で決めていた)アイドルグループのセンターを決める選挙だったりする。もっと細かな部分では、(歌詞のタイトルとはいかないまでも)一文や一言、(ジャケットで使用する写真とはいかないまでも)背景の色など––––を、無料で世界中に問えるシステム「SNS」が、せっかくあるのだから……(どれだけ返信があるかは別として)リリース前になるべく多く市場とコミュニケーションできる機会をつくろうとする(公開して、少なくともアンケートを取ったり、是非を問うたり、理想はX次創作の素材にする)。
アップルが、新商品の情報を、事前にチョロっとリークしたりすると、すごく盛り上がるのも、ある種、同じ目線のプロモーションかも知れない。本当に漏れて怒ってるのかも知れないけど……
少なくとも、MACファンの僕からすれば、嬉しいお祭り騒ぎだ。
ここでもう1つ重要になってくるポイントは、そこに「新作」も「旧作」もないというコト––––音楽業界でいえば、旧譜を、今という時代だからこそ「ゼロ次創作」という位置付けで再度今らしくリリース(※UGCを加速させるための素材として開放)することで、新譜とまったく同じムーヴメントを起こすコトは、決して、夢ではない。
それこそが、アーカイヴのオープンソース化––––古いモノを新しいコトに変化させる魔法だ。
ベスト盤をリリースする際に、旧譜のアカペラの歌データのみをリリース(解放)し、リミックス・コンテストを開催するコトなどは最たる好例。
もっと突き詰めれば、その審査を、音楽業界のプロフェッショナル(特権階級)ではなく、インターネット上のC2Cに委ねた(企業側の一方的な発信からカスタマー同士の相互発信 = 民主的な交流を促進するためにエンパワーメントした)ナラティヴ構造に置き、「いいね!」数というビッグデータや、「コメント」文というエスノグラフィックなシックデータを指標に、グランプリを決めるなども有効だろう。
それこそ「未来に先回りしたような感覚で可視化された社会からの反応」であり、オフィシャルとしてリリースする前に市場調査を済ませているようなものだ。
そして、カスタマーというのは、受動的なファン(音楽であれば、聴くだけのリスナー)よりも参加型のファン(ユーザーやX次創作者など)の方が、より大きな熱量を持つ傾向が強い。自分が参加(この場合は審査)したモノ(製品)への購入意欲は高まるという素晴らしい副作用も持っている。
かつてはマニアックとされていたレコーディングに関する雑誌は、ボカロPや歌い手ブームで、他人の作品の裏側を読むのではなく、自分ゴトを深掘りできるマガジンとして出版数を伸ばしたし、同じく、地方にあるローカル雑誌は、参加型だから(写真コーナーに自分/家族/友人が映るから)買われやすい面を持つ。読者モデルも同じ構造で、新たなスターの開発だけでなく、販売促進(自分が載ってるから買う/自分が載るかも知れないから買う/自分が載りたいからリサーチとして買う)という面も持っている。純文学の雑誌を買う人、楽器雑誌を買う人は、プロかアマチュアかはさておき、ライターであり、ミュージシャンであるコトが多い。それは、自分がそのカルチャーやシーンという共創の輪に加わっているからだ。
noteの共同マガジンも、同じ構造で高い熱量をキープしている。誰かのマガジンで知るのではなく、自分も参加するマガジンで相互作用することに重きが置かれている。「ナラティヴ・マーケティング」や「マテリアライズ」を熟知したX次創作の促進なども活発に行われている。
リミックスの話に戻ると––––(ファンのファンによるファンのための)コンテンストで得た予言書を参考にして生まれたリミックス・アルバムと、社会の反応を一切見ずにディレクター個人の独断と偏見で企画した音源のどちらが、ビジネス上成功する確度が高まっているのか?––––火を見るより明らかだ。
コロナ禍以降の世界で、「マテリアライズ」という発想は、新たなリテラシーとして、音楽以外の業界にも浸透していった。任天堂の「あつまれ どうぶつの森」では、前述のメトロポリタン美術館のデジタル画像が容易に召喚できるみたいに、有名ブランドの洋服がデジタル複製として登場している。ゲーム業界やファッション業界でも「マテリアライズ」という発想が浸透しはじめているのだ。
サンプリングといった方がしっくり来るのかも知れない––––有名スポーツブランドの箱を使ったハイブランドのデザインを模したバックなどもある。著作権という観点からは褒められた事態ではないが、それは「抗えない大きな変化」としてファッション界にも起こっていくはずだ。
そんな中で、2010年代後半のハイファッションを牽引したグッチのクリエイティヴ・ディレクター「アレッサンドロ・ミケーレ」が、同ブランドの2次創作をストリートで展開していた(きっかけは、ハロウィンのときにグッチのベッドシーツに2つの穴を開けて被り、お化けのような格好でニューヨークを闊歩した)「トラブル・アンドリュー(Gucci Ghost)」をフックアップし、オフィシャル化したコトなどは、まさに「マテリアライズ」や「エンパワーメント」の本質を捉えた素晴らしいディレクションだった。
今後のファッション業界では「リメイク」というX次創作的な発想も加速していくだろう(と言っていたら、これはもう現実のものとなるつつある)。エシカルな志向性も含め、ブランドモノを含む古着をリミックスした2次創作から、新たなファッションムーヴメントが起こるかも知れない。そのとき(著作権という観点で)いかにこの文化に寛容になれるか? は、各ブランドの信用に関わる大きなターニングポイントとなるだろう。是非、レコードメーカーのかつての愚行を反面教師にしてもらえれば幸いだ。
この例からも分かる通り、マテリアライズは、B2Cでお金を儲けるビジネスにはなりづらい––––もっともな要因は、X次創作をした側が、その創作物を2C向けに販売するコトは、モラル的にも、マナー的にも、まだまだ社会に許されていないからだ。
想像してみて欲しい––––
超人気アーティストの大ヒット曲を使った「踊ってみた動画」がバズったからといって、
それを無断でDVDにして販売したら––––社会(特に、オリジナルの超人気アーティストのファン)の反応がどのようなものになるのか––––想像するだけでも恐ろしい。
その上で––––「マテリアライズ」を活用したビジネスを活用しやすいのは(僕が考えうる限り)以下のいずれかの業種しかなさそうだ。
いずれにせよ、多くの企業が「マテリアライズ」と「エンパワーメント」いうフォーカスを意識しておいて損はないはずだ。常に、自社のコンテンツや保有権利に––––
・素材化して開放できるモノがないか?
・権限移譲できるコトがないか?
と、目をギラギラ、内向的に光らせておくことだ––––ここでは、音楽とアパレルを例に挙げたが、今後、ありとあらゆるモノゴトがマテリアライズされていく可能性は否めない。
ちなみに「materialize」は、本来「霊的なモノが肉体的に現れるコト(実現)」を意味する言葉だ––––それは、仮想と現実を行き来し、ときには統合する「社会(この言葉が生まれた当時からするとはるか未来である現代)」の最新状況を、まるで、あらかじめ予見していたかのように造られている。
世界は、常に、あらゆるボーダーライン(境界線)やインターフェイス(界面)の消失を目指してきた。
そして、今なお、その試みは現在進行系だ。
未来の末の末は––––精神も肉体も––––デジタルもアナログも––––仮想も現実も差別しないのかも––––そんな究極のボーダレスに向かって全人類が同じ方向を見つめるのに、新型コロナウィルスのような世界共通の敵が必要なのだとしたら……
––––これまでの人類の進歩とは、なんと、幼く、浅はかなものなんだろう––––もしかすると、僕たちは、まだまだ、全人類史のプロローグあたりを歩いているだけなのかも知れない。
【 マ ガ ジ ン 】
(人間に限って)世界の半分以上は「想像による創造」で出来ている。
某レコード会社で音楽ディレクターとして働きながら、クリエティヴ・ディレクターとして、アート/広告/建築/人工知能/地域創生/ファッション/メタバースなど多種多様な業界と(運良く)仕事させてもらえたボクが、古くは『神話時代』から『ルネサンス』を経て『どこでもドアが普及した遠い未来』まで、史実とSF、考察と予測、観測と希望を交え、プロトタイピングしていく。
音楽業界を目指す人はもちろん、「DX」と「xR」の(良くも悪くもな)歴史(レファレンス)と未来(将来性)を知りたいあらゆる人向け。
本当のタイトルは––––
「本当の商品には付録を読み終わるまではできれば触れないで欲しくって、
付録の最後のページを先に読んで音楽を聴くのもできればやめて欲しい。
また、この商品に収録されている音楽は誰のどの曲なのか非公開だから、
音楽に関することをインターネット上で世界中に晒すなんてことは……」
【 自 己 紹 介 】
【 プ ロ ロ ー グ 】