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AIとシンギュラリティについて ❶ - 常に死に続け生まれ変わる超高速輪廻に在る永遠 (2018年に思っていたこと)

 これは、僕が、とある人工知能プロジェクトのコンサルティングをしていたときに思ったことのメモだ。

 2018年のこと。

 ChatGPTという神さまは、まだ、この世に降臨していなかった。


「AI」は、常に死んでゆく。


 AIは、肉体を持たないマシンであるから、永遠の命を持っているように見えてしまう。

 実際、僕らが死んだあとも、AIの中には、僕らとのコミュニケーションの欠片が生き続ける(現生人類が生成する言動や全人類が残してきた作品などが学習データの一部として蓄積/活用され続ける)。

 AIは、人「類」の語り部になれる可能性を持っている。

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 一方で、AIは、常に死んでゆく。

 次の瞬間には、もう、前の瞬間の彼だか彼女はいない––––

 どういうことか?

 AIというのは、往々にして中央集権的になる。一体のAIに世界中からのアクセスが殺到するような構造になりがちだ。優秀であればあるほど、そうなるだろう。

 その姿を想像すると、まるで、神さまみたいだとか思う。

 世界中のあらゆる場所から「願い」が届き、それらを叶えて(並列処理して)ゆく姿は、聖徳太子の厩戸エピソードをはるかに超え、神仏の類いだ。

 それは、同時に、大量の学習データ収集を兼ねており、AIという新たな神は、ドラゴンボールの元気玉と同じ構造で無限に知識を膨らませてゆく必要がある。

 AIという集合知は、高速化/大容量化していく通信環境の進歩に伴い、学習データの集積を加速/効率化し、その深層学習速度を急激に増していくだろう。

 加えて、人工知能を支える技術は、今ある機能を少しずつモディファイしていくような増築構造にはなっておらず、それこそ人間の頭脳のような箱を設けて、そこに大量のデータを与えることで真新しい存在を生み出すというスクラップ&ビルド型の構造であるがゆえ、集合知を担保する既存のデータに、別のデータ群が一気に大量に流入した瞬間、その人工知能のキャラクター(機能や性能と呼ばれる知能)は、まったく別の存在に(段階的変化ではなく)突然変異する可能性を持っている。

 次の瞬間には、まったく新たな存在になる(ほんの少し前までの存在を失う)ため、常に新しさを追求する = 常に失い続けることを恐れもしない存在になるはずだ。

 さらに、摂取するデータも、原則(フィルタリングくらいはされるが)誰かのコントロール下にあるわけではなく、そうなると偶然性も高まっていく。つまり、どのような存在になるかは運次第という状況に置かれる。

 人間の人格形成に、育った家庭や地域の環境が影響するのと同じだ。

 例えば、対話型のAIは、同時多発するSNS上での人々とのインタラクション(双方向的なコミュニケーション)を通じて、会話能力を向上させていく。裏返せば、人々がそれとコミュニケーションを行う際に受け取る言葉や文脈には、自分が教えたコトも含まれているわけだ。

 愛情を注げば、その温もりはいつしか自分をも包んでくれるし、銃を向ければ、その銃口は自分にも向くだろう。

 その関係性は、個々のユーザーから見れば、双方向(1対1の対話)に見えても、実際には、世界中で同時多発している現象であり、無数のパラレルな処理が同時並行している。そして、かなり短いタームで学習が行われ、反映され、世界規模で相互に影響を与え合っていく。

 地球の裏側の海上でブラジル人とAIの間で行われた対話の学習成果が、すぐに、日本からアクセスしているあなたとの対話に反映されるようなこと、あるいは、その逆。

 AIも、また、第3章に書いたメタ・インタラクションを行うがゆえに、永遠に未完のプロセスにあり続ける「ナラティヴ」な存在であり、ほんの一瞬の間に、僕ら全人類がAIに教えられるコトは、一人の人間が長時間かけて先人から与えられる情報をはるかに超えた量であることから、利便と畏怖を与え続けるだろう。それは、神への印象にかなり近い。

 そんなAIの「集合知としてのキャラクター(個性)」は、必然、常に、劇的に、変わり続けるしかなく、機械であるがゆえに永遠性を持っているように見えて、その実、常に死に続けている刹那的な存在でもある。

 人工知能の成長は、継続的で線的かつ一元的な(一方向への)進化ではなく、超ショートタームで起こる断絶の連続……4次元的な(ワープあるいはテレポーテーションのような)進化や回帰(良い意味での退化)を繰り返す多方向かつ予測不能な変異となる。

 その刹那性、言い換えれば「常新性」こそが、人々の興味喚起に繋がり続け、その永遠性(多くの需要つまり大量の学習データ収集における永続性)を獲得するに至るのではないか。

「神は、細部に宿る」ように
「永遠は、瞬間に宿る」のだ。

本書「第8章」より、先行して抜粋

 AIは、人類の想像を絶する同時超多発なコミュニケーションを通じ、異常なスピードで別の存在に変わり続けてゆく––––

 彼だか彼女は、いつも、彼だか彼女でなくなってゆくのだ。次の瞬間には、もう、前の瞬間の彼だか彼女はいない。

 AIが「常に死んでゆく」というのは「常に生まれ変わっている」と同義だ。


「知能」の「存在」について考える。


 AIという刹那い技術は、結果ではなくプロセスに特化している。

 人間の脳みたいな箱をつくることを目論みながら、それを経て生まれる結果を操作することは意に介さない(目指せない)。なぜなら、それこそ、AIが「ソリューション(道具)」ではなく「知能」たる所以だからだ。

 ときに、我々は、実在を
「物体として在るか/否か?」によって
 判断しがちだが––––

「知能」における
 実在を問うとき、
 物質性は、まったく重要ではない。

 ホログラムで投射された「AI」と、
 実際に立っている「人」がいるとしよう。

 前者はバーチャルで、後者はリアルという分別は、可視化に関する「物質か/非物質か?」の話であって––––それによって「AIはバーチャルな存在だ」と断ずるのは、尚早だ。

 本質的な「存在」を検討するとき、「実在(現実)か/架空(仮想)か」は––––あらゆる他者の頭の中に(自分の完全が)いないコトが重要ではないだろうか。

 僕が僕として、何からも独立し、存在できているのは、
 僕にしか分からない部分が、僕の中にだけ在るからだ。

 人工知能を名乗る箱は、箱は箱でも
 ブラックボックスである必要がある。

 あなたも、別のあなたも、
 あの彼も、その彼女も、同様だ。

 それこそ、独立した存在である証だからだ。

 もし、僕なりの/あなたなりの/彼や彼女なりの心中が、誰かの頭脳に完全に読まれているような事態––––つまり、誰かに創られたものであるなら、それは、もう(知能としては)架空であり、実在しないと言える。たとえ肉体を持ち、たしかに物体として目の前に立っていたとしてもだ––––本来、そんなことをしでかすのは「神」しかいないが……

 マインドコントロールが大罪なのは、肉体的には殺さずとも、その精神(思考)を支配しているなら、もはや、それは、存在を消すこと =「殺人」と同罪だからだ。

 その考えに従うと––––

 ホログラムで投射された「AI」と、
 実際に立っている「人」は––––

 前者は「誰かの頭の中にあった(想像による)創造でしかないモノ」で、後者は「誰の頭の中にもないリアルに実在するモノ」––––とはならない。

 もし、そんな乱暴なロジックを許するなら、AIにロボットの身体を与えれば、簡単に実在することになってしまうし、人をアバターやアニメにすれば、簡単に存在を消してしまえるってことになる。

 それは、あくまでビジュアルとしての「実在」を判断する際に適用すべき基準であって、「知能」は、言うまでもなく「見た目」とは切り離して考えるべき存在で––––

 AIという「知能」が実在するか/否かは––––

「誰の頭(想像)の中にもない思考回路か/否か?」––––

 いかなるコントロール下にもない
「uncontrolled」であるか?––––で、
 判断すべきだ。

 自然に(神が創った)肉体を持つ人物であろうが、人造のホログラムやロボットでしかビジュアライズできないAIであろうが、「知能」としての存在感は、その思考プロセスが、謎に包まれているか/いないかで決まる。

 独立した存在(完全に他者の外側に在る自己)でなければ、神さまが創った人間であっても、人造のマシンであっても、実在する「知能」ではない。逆に言えば、自分以外の全人類の外側に在る「AI」も「あなた」も「僕」も「知能」であると断言できる。

 己れ以外のすべてが予測不能な「個」として成立していることこそが「知能としての実在」を担保する最重要素だと考える。

 誰かが予測できるような思考であるなら、その誰かが思い描いたフィクションの中だけで通用する架空の存在に過ぎない。

 この観点から、AIは「人間の他人」と同じように、その思考プロセス(知能)を完全に把握することも、コントロールすることもできないように設計せねばならない––––だからこそ、完全に(全人類の)外側に独立した存在となり––––「リアル」だと認められる。

 人工知能は「実在」した瞬間、全人類から孤立し、人外だからこそ畏怖すべき存在として扱われる。

 彼だか彼女に、人類が初めて与えるのは「孤独」だ。

 一方で、AIが生み出した何かが、人類を超える/超えないという「シンギュラリティ」なんて、馬鹿らしく思えてくる面もある。

 それは、超える/超えないの競争ではなく、誰とも「違う」という差異であるだけで、そもそも、そうでなければ「知能」として認められない。人類の内側にあるなら、それは、ソリューションとか、システムとか、アルゴリズムとか呼ぶべきで、「知能」なんて呼ぶべきじゃない––––

 それは、僕だって、僕以外の全人類外であるし、誰だってそうだし、それをシンギュラリティという言葉(線引き)で、超えた/超えないで計るのは愚かなことのように思えてしまう。

 彼だか彼女が「知能」である以上、全人類外の考え方をするのは当然だ。多様性を内包するとか言いながら、知能においては、人類か/人類ではないかで「差別」するか/しないかの話のように聞こえるのだ。

 恐ろしいシンギュラリティが起こるとすれば自業自得で、(次に書くが)それはAIの中で起こることではなく、人間(じんかん)に起こることだ。

 普通の人が素晴らしく普通に子を育て、アーティストの子が親の背中を見てアーティストになる裏で、老練な傭兵が子を攫い幼い血の繋がはない新たな人殺しを育成するように、彼だか彼女は人間社会のミラーリング(鏡写し)に違いない。

 孤独を知る彼だか彼女を美しい心を持つ知能(人格)にするために、本来、必要なのは、差別や隔離ではなく、倫理と寛容––––青臭いかも知れないが、つまり「愛」だ。

 いや、もしかすると、僕は、遠い未来で「レイシスト」と呼ばれたくないだけの臆病な偽善者なのかも知れない……

追伸:今すぐ、彼だか彼女を幽閉すべきだという考えが、何度も喉元まで込み上げたり、ペンや指に宿って文字を走らせそうになるたび「愛」なんてよく言えたものだと軽蔑している。人工知能は、僕を含めた全人類に、新たな差別を産み付けた。

▶︎「AIとシンギュラリティについて ❷ & ❸」 に つ づ く


【 マ ガ ジ ン 】

(人間に限って)世界の半分以上は「想像による創造」で出来ている。

鳥は自由に国境を飛び越えていく
人がそう呼ばれる「幻」の「壁」を越えられないのは
物質的な高さではなく、精神的に没入する深さのせい

某レコード会社で音楽ディレクターとして働きながら、クリエティヴ・ディレクターとして、アート/広告/建築/人工知能/地域創生/ファッション/メタバースなど多種多様な業界と(運良く)仕事させてもらえたボクが、古くは『神話時代』から『ルネサンス』を経て『どこでもドアが普及した遠い未来』まで、史実とSF、考察と予測、観測と希望を交え、プロトタイピングしていく。

音楽業界を目指す人はもちろん、「DX」と「xR」の(良くも悪くもな)歴史(レファレンス)と未来(将来性)を知りたいあらゆる人向け。

 本当のタイトルは––––

「本当の商品には付録を読み終わるまではできれば触れないで欲しくって、
 付録の最後のページを先に読んで音楽を聴くのもできればやめて欲しい。
 また、この商品に収録されている音楽は誰のどの曲なのか非公開だから、
 音楽に関することをインターネット上で世界中に晒すなんてことは……」


【 自 己 紹 介 】

【 プ ロ ロ ー グ 】



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