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第7章 / 新たな法治を行うのは誰か?


7−1 
何度でも巻き戻しが効く可逆的未来


 最先端のテクノロジー観点から見据える「xR」のフォーカスは「いかに、リアリティを保って、仮想と現実を融合できるか?」に当てられることが多いが、アート業界やエンタメ業界から見た場合、「xR」の社会実装に向けたβ版の開発や実証実験が急務である現段階で、現実への仮想の融合精度(本物のリアリティの追求)は、必ずしも重要なファクターではない。

 なぜ、アートやエンタメという視点が重要なのか?––––まず、その理由を明確にしておく。

人は、争いによって科学技術を進化させてきた。

 原子力は英語で「Nu-Clear」と書く。賛否もあるが、新しいクリーンなエネルギーという面を確かに持っている。ただし、その技術は爆弾に利用するコトもできるし、原子力発電所が望まず大きな被害を生むコトも、また、事実だ。

 同じく、3Dプリンターは、多くの業界で新たな希望となるかも知れないが、いかに効率よく戦場に兵器供給(現地調達)できるかという着眼点からも期待されている。

 科学や技術は、常に「インスピレーション」と「実践の場」を求めてきた。それは、ときに「戦争」という悲劇を助長してきた。

 逆に、経済的ともすれば利己的な「真新しい発想」や「技術革新」という企業努力が、想像もしなかったような善の副作用を生むケースもある。

 後者を効率良く素早く生み出すために「集合天才」や「アジャイル組織」というメソッドがあり、その実践に際しては、後述する法治(コンプライアンスなど)を重視し、「誰も傷付けない実証実験」を重ねる必要がある。

 僕が身を置くアート/エンタメ業界は、今の時代、医療や戦争といった生死に直結する先端技術分野に代わり、新たな発想を科学的に社会実装するための「誰も傷付けない実験フィールド」になりつつある。

 なぜ、アートやエンタメという視点が重要なのか?––––

人は、アートや祭りによっても、科学技術を進化させてきたから。

 さらに「xR(主にはVR)」を活用した実践フィールドは、仮想空間という想造のみのセカイだからこそ「すでに起こった現実の未来」ではなく「可逆性を持つ擬似的なミライ」を生み出すことができるため、新たなクリエーションやソリューションを社会実装する前段階の「何度でも巻き戻し可能な実践の場」として、今後、益々、有用とされるだろう。

7−2 
進化と問題という双子


 仮想現実内では、とっくに人も鳥のように自由に空を飛び回れるし、魔法も嘘みたいに使える––––あくまで、鳥 “みたい” にであり、“嘘(仮想)” のゲンジツだからだ。

 あるパラレルワールドでは、ドラえもんなる猫型ロボットが4次元ポケットからどこでもドアを取り出し、人々はタイムトリップができる。別のマルチバースに暮らすハリーポッターは魔法の箒に乗って、見たこともない空中競技に夢中になっている。

 僕たちは現実世界のみを生きているわけではない。

 だって、ドラえもんのセカイは僕らの世界のテレビで放映され、ハリーポッターの様子を記録した小説にこちらの世界の子供が夢中になっている。現実にお金が動いている。まぁ、お金も夢と魔法みたいなマボロシだから……結局、ボクたちは、無数に存在するセカイを現実に重ね合わせた世界のような幻想にも生存(いや、依存)している。

 ファンタジーの中では、現実よりも進んだセカイが、科学的なエビデンス(物理法則など)を超越して(悪くいえば無視して)成立している。それに比べ、本当の現実は、物理だけでなく自然摂理にも縛られた限定的な世界であり、当然、仮想セカイよりも遅れており、そんな世界のようで幻想でもある人間社会は、常に、仮想セカイに強く影響され、時には憧れさえ抱く。

 人類史上最高のSFジュブナイル作家の1人であるジュール・ヴェルヌは、「人間が想像できることは、必ず人間が実現できる」という名言を残した。

 事実、「月世界旅行(1865年)」で彼が予言した––––宇宙空間での無重力状態や月からの帰還方法は、アメリカのアポロ計画でかなり近い形で実行されたし(捏造説もあるが)––––「海底二万里(1870年)」では、とっくに原子力潜水艦を描いている。

 アーサー・C・クラークとスタンリー・キューブリックのタッグが手掛けた「2001:A Space Odyssey(2001年宇宙の旅)」には、すでにインターネットやタブレット型のデバイスが登場している。

 これらは必ずしも偶然の一致などではなく、当初、科学的根拠に乏しい予言や妄言(机上の空論)に過ぎなかったが、一方で「実現イメージ」にも繋がったからこそ、仮想現実化(SF小説での明文化や映画での可視化)されたのち、「強迫観念」にも似た「執念」を以って、科学技術が追い付き(ある程度の)必然性を伴って現実化した「想造」とも言える。

 偶然の一致ではなく、空想から始まった必然。

 そんな仮想現実というセカイは、現実世界(の人間)が存在しなければ、絶対に創造も認識もされない幻でもある。

 次々と想造を生み出す現実世界は、バーチャルの生みの親であり、バーチャルを内包する世界でもあるのだ。つまり、仮想ゲンジツは、所詮、現実がなければ存在できないソンザイ––––その字の如く「人」が「夢」見たに過ぎない「儚」いセカイだ。

 このように、人間には(仮想を実現するための科学的根拠や実践理論などを知らずとも)現実的ではない未曾有の事象を創造(外在化)し、認識(内在化)するコトを叶える「能動的かつ受動的な仮想能力」が備わっている。

 それこそ、個々の天才が外在化した「魔法」を、多くの凡人が内在化し(一部のコミュニティで共通認識となり)、延いては、社会全体に客体化(既成概念として成立)させていく「原理」だ。

 遊園地のアトラクションとして、あるいは、ウェアラブルデバイスを用いたVRコンテンツとして「夢と魔法のセカイにあるシンデレラ城」を楽しむためには、テクノロジーだけではなく、「能受動を併せ持つ仮想能力」が必要不可欠になる。

 シンデレラや魔法という「フィクション(既成概念)」を知らなければ、物質であろうがデジタルデータであろうが、それはヨーロッパ風のただのお城という認識(印象)しか持たず、仮想的な価値は脆くも陳腐化してしまう。

 我々がシンデレラ城で重視している「何か」は、城のリアリティではなく、シンデレラという想造の産物の方なのだ。それは、心の中だけに存在し、本来、目にも見えないし、手で触れることもできない「捏造」だ。

 それに、木や石で出来た「城」という物質を与えれば「遊園地のアトラクション」になるし、「紙」という物質に描けば「絵本」になるし、光で見せる「城」という非物質的なデータを与えれば「映画」や「VRコンテンツ」と呼ばれるだけで、その本質である「シンデレラ」という仮想は、物質か非物質的であるかを問わない普遍的な価値を持つ。

ちなみに、上記を「xR」分別をしておくと

・「遊園地のアトラクションとしての城」:AR(仮想 = フィクションで拡張された現実 = 物体を認識 = 鑑賞している状態)から、その中に入って楽しむ体験 = 没入するコトによってMRとなり、いつしか現実感が薄れてくればVRとなる。子供は、即、夢中 = VR状態になれるし、冷めた大人であっても、その多くはいつしか夢と魔法の国の住民になる。僕のようなおじさんがVR状態にあるかどうかは、オモチャの耳を装着しているかどうかでを見極められる。一歩、園外に出れば絶対に無理な四つ耳姿のおじさんが、恥ずかしげもなくフィクション+人物になれるのは、そこが別の常識で動いている幻想のセカイ = 仮想現実だからだ)

・「絵本」:基本的にはAR(仮想 = フィクションで拡張された現実 = 物体を認識 = 鑑賞している状態)だが、幼い子がベッドで寝る前に目を瞑り、その横で母が(この絵本を)読み聞かせをしているとき、子どもが頭の中でシンデレラに成り切っているなら(夢中であるなら)、それはVRかも知れない。

・「映画」:絵本と同様に基本的にはAR

・「オキュラスリフトで観るVRコンテンツ(シンデレラ城の仮想体験ツアーが、もし、あれば)」:言うまでもVRと思われるかも知れないが……遊園地と同じで、向こうのセカイに没頭できているならVRに違いないが、「いやいや、所詮、仮想でしょ?」と、現実の自分は、家の中で、耳ではなく、今度は、巨大な水中メガネみたいなモノを付けて、このフィクションを観ているだけと冷めて見ている(or 体験している)間はARかMRの類。

※ それでも、テレビで観る映画よりはオキュラスリフトの方が没入しやすくなっているのは、上下左右どこを見てもフィクションの視界になっているからで、オキュラスリフトが「VRゴーグル」と呼ばれる所以はそこにある。されど、正しくは「VRになりやすいゴーグル」に過ぎない。実際の遊園地における没入しやすい仕掛けも、同じく、上下左右フィクションの視界になっているコト(事実、ディズニーランドは、園外の現実が目に入らないよう十分に気をかけている)だが––––そちらは、視界や聴覚だけでなく、嗅覚/味覚/触覚までフィクションのモノに操作/脳内変換させている点で、視聴覚のみを包み込む「VRになりやすいゴーグル」で味わえる「かなり擬似的な体験」を凌駕する「かなりリアルに近い体験価値」が付与できる。

本書「第5章 / 未来は常に始まっている」参照
https://note.com/oto_ningen/n/n2d1bd28249a6

 同じく、本来は「認識」に過ぎない空想上の存在(仮想)である「魔法」が、人間社会においてのみ「既成概念」として成立し、「魔法みたいだね」という比喩が世界中で通じるのは、その概念が高度に現実に溶け込んでいるからだ。

 魔法という想造の産物が、心の中でしか存在しなかった時代には、手品師がカードを燃やして白い鳩に変えても「急に目の前に鳥が現れて、とっても不思議な気分だ」と、情緒のない割には長ったらしい文でその状態を表現さねばならなかったが、「魔法」という「AR(現実を拡張する)ソリューション」の登場以降に生まれ育った「魔法に関するAR/MRネイティヴ」な僕たちは、「魔法みたいだね」というたった一言で、より多くの感情を含んだ複雑な表現で、より豊かに共感を得るコトが可能だ。

 僕らは、そうやって、「シンデレラ」や「魔法」だけでなく、無数の想造された言葉で拡張された現実の中を(没頭して)生きている。

 それが「人間社会」=「IMMERSIVE SOCIETY(自作自演に没入するセカイ)」だ。

 魔法を、物理的に、あるいは本物のリアリティを以って「可視聴化」するコトに大義はなく、魔法に対する「心のあり様」こそが、世界を複合的あるいは多重的に拡張するための最重要ファクターなのだ。。

 人間社会という仮想現実(正しくは、仮想で拡張されたAR/MR)は、心的に作用する発想/体験であるからこそ、物質的な世界を精神力によって超越するコトが可能であり、時にはそれが生む高いモチベーションによって物質的な現実(自然)に大きな影響を与えるコトもできる。

 天使のように善い顔を見せるときには、宇宙旅行や地球に優しいエネルギー開発になるし、地に堕ち悪魔となれば、原子力兵器や環境破壊を産み落とす元凶となる……

 ディズニーランドでの周遊は、子供に普段以上の運動維持能力を発揮させて長距離を移動させるだろうし、ARゲーム「ポケモン GO」は、ただの住宅地の一角を有名観光地に負けない集客力を持つ土地へと変化させる一方で、歩きスマホによる交通事故の危険性を高めた。

 仮想セカイのモチベーションのみを優先するようなモノゴトは、いくら精神がそれが生む幻覚に没頭しようとも、結局、物理法則や自然摂理が支配する現実世界を生きる肉体までは解放してくれず、人間にとって善いコトでも、人類という動物にとって善意的とは限らない。

 夢の国の中の子供は、肉体の限界を超えたはしゃぎっぷりで疲労困憊し、歩きスマホを止められない現代人は、常に、赤信号に気付かないリスクを孕んでいる。

「21世紀型進化」と「21世紀型問題」は、インターネットという同じ親から生まれた双子のような存在と言われるが、仮想現実がもっと大きな影響力を現実に与える未来の没入社会「IMMERSIVE SOCIETY 2.0(Society 5.0)」は、さらに強大な陰陽パラレルの可能性を持っている。

 僕たちが光を見上げるとき、その足元には必ず影が落ちている。
 影を消すためには、光を消すしかない。
 それは、望んだ暗闇か? いや、不意に失った光への情熱だ。

 仮想現実の進化と同時に生まれる問題は、あるときには「交通事故」として具現化され、またあるときは仮想的な価値を巡って「物理的な争い(大きいと国家間の戦争)」として、誰かに肉体的な苦痛を与えるかも知れない。ほぼ完全な非物質である仮想通貨は、物質的な要素を併せ持つ紙幣の交換価値を、一瞬で、それこそ魔法のように、(悪い意味で)他者に移動させてしまえる危険性を喉元に突き付けてくる。

 だからこそ、仮想による拡張現実あるいは複合現実(AR/MR)において「心のあり様」は、もっとも大切にされるべき最重要課題なのだ。

 魔法だって、悪い心の持ち主が使えば毒リンゴで無垢な姫を殺してしまうし、善い心の持ち主が使えば誠実なシンデレラの願いをカボチャで叶え、ときには、ハリーみたいにあちらのセカイだけでなく、こちらの世界の実に生きる子供たちを救うコトさえ可能だ。

7−3 
違法な行政と正しい無法者


 21世紀の法治国家で、その法がダンスを規制していた。

 すでに義務教育に「ダンス」が採用されていた日本で、同時期に、その「ダンス」が法律によって不当に規制されていたコトをご存知だろうか?

 ––––正しくは「ダンスをさせるコト」が、ある法律によって厳しく規制されていたのだ。

 その法律の正式名称は––––

「風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律」

 ––––通称「風営法」––––1948年に制定された。

 その当時、ダンスホールが犯罪の温床になっていた(違法な売春営業などが横行していた)コトから「客にダンスをさせるビジネス」が規制対象となり、結果、ナイトクラブ(以下クラブと表記)だけでなくダンス教室でさえも、長らく風営法の規制対象となっていたのだ。

 クラブは(許可を取っていたとしても)営業時間は原則午前0時迄で、それ以降に踊らせるのは違法だった……

 戦後間もない立法当時、たしかにそれは有用な犯罪防止策だったろうが、今の時代、クラブは犯罪を加速させる場所ではない。むしろ、政府は「ナイトタイムエコノミー」という大義名分でインバウンド市場向けの有用なエンタメ資源として歓迎/推奨する向きすら持っていた。つまり、法治国家として「ダンスを規制する」一方で、資本主義社会(経済)としては「ダンスを推奨する」という矛盾が生じていたのだ。

 そんな中、2014年––––客に無許可でダンスをさせたとして、風営法違反に問われた老舗クラブの経営者が逮捕された。

 しかし、裁判では「客に性風俗を乱す享楽的なダンスをさせていたとするには合理的な疑いが残る」として、無罪となった(良かった……)。

 この裁判官を批判したいわけではないが、もはや、この判決にさえ矛盾を感じずにはいられない––––そもそも、この法律はダンス自体を取り締まるものでもなければ(犯罪軽減が本当の目的)––––性欲を掻き立てる享楽的なダンスをしていたとしても、そもそもそれは悪ではない––––よって「犯罪を助長するようなダンスがあったとして(そんなのあるわけないけど……)それをさせる場を提供していたか、否か」という尺度でなければ、この規制の原理は働かない。

 これは立法当初から分かっていたはずのコト。

 この裁判の争点が「客に性風俗を乱す享楽的なダンスをさせていたコト」にある時点で、多くの法家たちは「この裁判自体が、本来、法律が守るべき美徳とズレている点」に気付いていたはずだ。

 なのに、裁判官の言葉がダンス自体に向けられた時点で、視点のすり替えが行われており、同じように視点を変えれば、弁護士は法を司る者として、「性風俗を乱す享楽的なダンスとは、言い換えれば、異性をムラムラさせるダンスであり、ならば、国が推奨する少子化対策に非常に有効だ」と言えたはずだ––––

 同年の10月には、店の明るさなどの条件をクリアすることでクラブを風営法の規制対象外としたり、飲食を伴わないダンス営業であるダンス教室などを完全に規制から外す「改正風営法案」が閣議決定された––––しかし、これも、翌月の衆議院解散によって廃案となってしまう––––政局に左右されるような事案でないコトは明らかなのに……でも、それが日本だけでなく法治国家の限界でもある。

 結果、2015年の6月に大幅改正がなされ、その1年後にやっと改正法が施行された……

 改めて言うまでもないが、ダンスは犯罪ではない。

 そんな当たり前のことが、21世紀の法治国家においても当たり前でなかった。

 僕らがどこかで完全な社会に近付きつつあると思い込んでいる「法治国家」というシステムは、絶対正義を司ってくれるわけではない。この世界は、まだまだ不完全に満ちている。

 これこそ、まさに、タレブ氏が「ANTIFRAGILE(反脆弱性)」で説いた「法律」=「脆い」を露呈している状態だ。

【 反 脆 い の 詳 細 は 第 2 章 を 参 照 】

 この例における「反脆さ」は、性風俗の乱れによる犯罪は防止すべきという「美徳」に宿っている。

 政府も警察も重視すべきは「美徳による正義」のはずなのに、誰がどう考えても変革が必要な「時代遅れの法律が定めた偽悪」を無意味に取り締まった結果、多くの過ちと犠牲が生じた。

 職務を全うしただけなのだから警察が悪いだなんて言えない––––でも、踊らせるコトに何の罪もない倫理を理解しながら、「踊らせる無法者」を、毎晩、躍起になって探していたコトも事実なのだ。

 こういうのを「税金泥棒」と言う(警察の皆さん、ごめんなさい。僕もその立場なら、それに迎合してしまうと思いますが、あえて、言わせてください)––––僕も含め、思考停止は、人間社会を軽やかに生き抜く、大切なスキルだ。そうでもしないと、看過できない悲劇が、偽の正義の方にあふれ過ぎている。

【 そんな状態になる元凶こそ「金による経済」って話 】

 それは、クラブやその経営者が支払ったであろう税金からなるリソースの無駄遣いであり、見方によっては、国民の三大義務を果たして基本的人権が尊重されなかった事例とも言える。

 そもそも、ダンスに関しての「無法状態(規制がない状態)」は正しい(少なくとも悪ではない)はず––––間違った法を無視する国民の勇気や正しさに対して、かたや(間違った法という意味での)違法を疑いもせず、無意味に取り締まった国家の姿を、あえて厳しく糾弾するなら、彼らの偽りの正義感が、戦時中に非国民を炙り出した憲兵やヨーロッパ中世の魔女狩りと同じ精神構造にある点を責めるべきだろう。

 さらに、今回の問題を引き起こした根源である法律を立てる(改める)機関「国会」においても、そこで働く議員においても、それを変革するためには無意味で大仰な手続きや(政治家としての成果に見合わない仕事を遂行するという)高いモチベーションや志が必要とされるため、結果、それに着手する者は少なく、この不都合は何十年もの間、罪のない人々を苦しめてきた。

 法治国家においての「法」は、人治国家における「王」に匹敵する最高権力だ。

 その強大な力を人から人外である(特定の人ではない)法へと移行したことは素晴らしい進化だと思う一方、「慈愛に満ちた王が治める人治国家」と「悪辣な規則が治める法治国家」であれば、前者の方が幸せな場合もあり、過去に素晴らしい人治国家が実在したコトを鑑みれば、法治国家という現行システムや、最新だからという理由だけのロジックを過信するのは、もっとも愚かしいとも思う。

 たとえば、自由––––

 自由であることを権利とすべきか?
 義務とすべきか? 責任とすべきか?
 あるいは、それ自体を主張とすべきか?

 自由とは、メッセージではなく、
 常に考えるべき課題なのではないだろうか?

 自由や法治を支える民主主義も、また、ナラティヴな存在であり「永遠にプロセスであるべき」と考える。自由の意味やそれを担保する法をアジャイルに可変させ続ける新たなモチベーションやシステムが、常に必要とされているのだ。

 僕たちは、真剣に「新たな法治」を考えねばならないタームに生きている。

【 ナ ラ テ ィ ヴ と は ? 】


7−4 
新たな法治


法治国家にとって–––– “法” とは、どんな存在か?

 どんな存在かというよりも「法の本質は何か?」と言い換えるべきかも知れない。

 ルール/制限/管理などが、真っ先に思い付くキーワードかと思う。

 しかし、これらはすべて「脆い」存在であり、時代や主義の変遷に合わせて変化を余儀なくされるため、普遍的な(反脆い)法の本質––––タレブ氏曰く「美徳」を示す言葉ではない。

法の普遍的本質––––それは「希望」ではないだろうか?

 例えば、歩きたい人と車を運転したい人、その他、多種多様な移動を求める人間(人と人との間:ジンカン)における、安全や便利に関する「望み」を「共存」させるのが「道路交通法」だ。

 それは、移動にまつわる1つの或る希望と言える。

 ただし、法という希望は、現状、国という単位で成立するゲマインシャフト(地縁や血縁によるコミュニティ)におけるソリューションに過ぎない。

 自動車の運転に関する法律1つとっても––––それが道の左右どちらを走るべきかは国によって異なるし––––速度制限に関しての本来の美徳であるべき「万が一、事故を起こしそうになっても止まれる速度」は世界中のどの地域を見ても提示すらされていない––––ヨーロッパのアウトバーンと呼ばれる高速道路には速度制限がない––––これは、世界中の高級スポーツカーが法定速度をはるかに超える速度を出せる性能を持っているという矛盾に言い訳を与える根拠の1つになり得る––––経済あるいは企業に有効な言い分は、法律の効力を無効化したり、矛盾を生み出したりしている。

 各国 “内” の法律によるオペレーションは、各国 “間” では機能しないことも多く、結果、その「間」は、ときに無法地帯と化し、法の矛盾を経済価値に変換できるような悪いグローバル化を起こす可能性を内包している。

 特にインターネット登場以降、それが普及するに伴い起こった「経済圏/文化圏からの国境消滅」によって、各国間で暗躍するダークウェブなどの無法地帯や法的混乱は加速する一方だ。

 国家間という空「間」のみならず、風営法の例のように、過去の都合と現状のズレ(時「間」に生じるレーテンシー)も、多くの法的矛盾を生んでいる。

 空間/時間といった物理から生じるこのような「法の抜け道」は、経済的観点からは「法が未達の真新しいマーケット」として、資本主義社会における競争の中でライバルを打ち負かすビッグチャンスであったり、一部の特権階層が金を生むブルーオーシャンになり得るコトも否定できない。

 民主主義は、法治国家というシステムと同時に、資本主義経済を生み出した。

 現在、最大の権力を誇っているのは(法で治める大国だけでなく)資本力で経済をぶん回す大企業だ。

 その証拠に、国に属する権利と会社に属する権利のどちらかを選ぶように迫られた際、後者を選択する人も多い。企業というゲゼルシャフト(利益社会組織というコミュニティ)はそれほど大切で、「国の法律という環境」が変わるコトよりも「企業での労働という環境」が変わるコトの方に危機感を覚える人が一定数存在するのが現実だ。

 今の時代、国家間や時間経過に生まれる「現行法では曖昧(グレー)な無法マーケット」で、時間的優位は(早ければ早いほど)経済的優位と同義である場合が多く、企業側が国家の行う「法整備」を待たず、我先にと「社会実装」を始めるモノゴトも少なくない。

 つまり、資本主導による自由主義を何より重んじる現代社会では、民主化/グローバル化/分権化などあらゆるトレンドにおいて「法律で世界を治める国家というゲマインシャフト(地縁)」よりも「方法で世界を治める企業というゲゼルシャフト(経済主体組織)」の方が起点になる場合が多くなっているのだ。

 新たな発想で社会をより良くしようとするとき、これまでにないイノベーションという「非常識」が必要とされる––––ともすれば、それは冒涜的でさえあるだろう––––その多くは「法の抜け道」である「法が未達の無法マーケット」に潜んでいる。

 その最たる「間」こそ「仮想空間」ではないだろうか。

 それは新たな希望であると同時に、手付かずのまっさらな闇でもあるのだ。白と黒が意図なく混在するグレーゾーン––––そこでは「古き良きスタンダードであった政治(法治国家)」と並ぶ「新たなスタンダードである経済活動を伴う社会貢献(企業)」によって、これまでとはまったく異なる順番で希望に関する対話が行われている––––今も、きっと、現在進行形でだ。


【法治国家:古き良きスタンダード】
→ PDCAのサイクルに近い

民衆:
「AR技術を使って、世界中に仮想的な宝物を隠した宝探しを開催したい!
 よし、政治家にお願いしに行こう!」

政治家(立法):
「それは、いいコトだ! よし、それを実現するための法律(規制と許諾基準)をつくろう!」

政治家たちの審議:
「歩きスマホは危ないから、その規制を道路交通法に取り入れよう!」
「どこにでも仮想宝を隠せるのではなく、公共の場所だけに限定しよう!」
「それらを全てクリアした企業だけにARアプリを用いた謎解き街歩きの営業許可を出そう!」

その民衆を含む企業:
「よし! 制定された新法に基づいて、AR宝探しを社会実装してビジネスするぞ!」

行政(たとえば警察など)がそれを監視:
「ちゃんと、法律に従ってるかな?」
「あれ? この企業は、隠してはいけない私有地に仮想宝を隠しているぞ!
 治安に良くないから、逮捕しよう!」

司法(検事と弁護士と裁判官):
「行政の捜査に問題はなく、間違いなく法に触れるから訴えるべきだ!」
「でも、ここに隠したのは、厳密には、違法じゃないのでは?」
「後世の善き判例とすべく(悪く言えば見せしめのためにも)法に則って裁こう!」

- - - - -

【資本主導社会:新たなスタンダード】
→DCAPのサイクルに近い

民衆(その多くがビジネスマン):
「AR技術を使って、世界中に仮想的な宝物を隠した宝探しを開催したい!
 よし、自分が働く企業の社長に提案してみよう!」

社長:
「それは(経済的に)いいことだ! よし、それができる方法をつくろう!
 弁護士に、法的な問題がないか、確認してもらおう!」

司法(弁護士):
「現行法上、問題ありません! グレーですが、進めて大丈夫ですよ!
 ただし、くれぐれもユーザーの安全には注意を払って下さい!」

企業:
「よし! AR宝探しを社会実装してビジネスしよう!」
→この時に、いかに善意的に取り組むか? が大切。経済活動だけを優先すると交通事故が起こる可能性が高まる。
仮想上の不動産の所有権が現行法で明らかになっていないからと言って、どこに隠しても良いわけではなく、経済最優先ではない善意的な自主規制が肝になる。

民衆がそれを監視:
「ちゃんと、善意に従っているかな?
 あれ、この企業は、隠してはいけない私有地に仮想宝を隠しているぞ!
 それは治安に良くないから、立法/行政機関に訴えよう!」

政治家たちの審議からの立法:
「歩きスマホは危ないから、その規制を道路交通法に取り入れよう!
 どこでも仮想宝を隠せるのではなく、公共の場所だけに限定しよう!」

行政(たとえば警察など)がそれを監視:
「ちゃんと、法律に従っているかな?」

※ 2巡目以降は、古き良き法治国家のスタンダードに準ずるコトが多い。




世界と社会の一部で、法治の “法” が意味する存在は
ゲマインシャフト(国家)が有する「“法” 律」から
ゲゼルシャフト(企業)が有する「方 “法”」に
変わってきているのではないか



 政治家というゲゼルシャフトを含んだ古き良きゲマインシャフトの個人だけでなく、新たなゲマインシャフトと言えるゲゼルシャフトな企業という集団も重視されるのが、今の時代だ。

 法治国家の中に残存した「人(社長という王)が治める社会」である会社という組織(大きいコミュニティ)の中には、都道府県や市町村にあたる部や課といった中小のコミュニティが存在し、それぞれに中央/地方貴族みたいな特権階級(部長/課長)が存在し、人が人を評価もすれば、裁きもする。

 企業では、「社則」という法は、ほぼ機能しておらず、経営者や部署の長による属人的な判断によって成立する(人治国家の次に生まれた)新たな人治型ゲマインシャフトと言える。

 だからこそ、「企業」という王国に暴君が生まれ、そのコミュニティが暴走しないよう、「コンプライアンス」や「社会貢献」が、より強く叫ばれているのではないか。

 元々、貴族社会という人治国家へのカウンターカルチャーであった民主主義と自由主義––––それと共に勢力を拡大した資本主義という国家システムだが––––「資本 “主導(至上)” 社会」である現代において、その主軸である経済ヒエラルキーのトップに君臨する王たる企業経営こそ、多くの民衆の自由/不自由あるいは平等/不平等を操れるポジションにあり、民主制や自由を俯瞰し、それらを、常に、考えるべき課題としなければならない。

 さらに––––上記の通り、場合によっては法律(の整備)よりも先んじるコトもある企業は、より一層「どのような倫理観や適切な希望を持っているか」「善意的なメソッドを生み、社会のためであろうとしているか」を意識/実践すべきとされ、社会全体の安全や平和のための役割を、きちんと果たせているか?––––を「法律に基づく行政」ではなく「美徳を重んじる民衆」から、常にウォッチ(監視)されている。

「xR」における進化と問題はインターネットという同じ親から生まれた双子のような存在で、陰陽のパラレルな可能性を持っているため、活用するときには自粛を、攻めるなら防御を、肯定するときには必ず否定する部分も意識する必要がある。

 やるコトを決めるのは大切だが、
 やらないコトを決めるのはもっと大切なのだ。


「新たな法治」を司る “法” は、法治国家を担う「“法” 律」ではなく、企業の善意的な社会貢献を行う体系的な「方 “法”」を指す。

 法律と同じく、経験や知識を共有資産化して、皆に問い続ける存在。

 脆いからこそ変わり続ける必要があり、その自発的な変化の連続(常新性)は「変わるべきではない普遍性」=「変わり続けるコトで変わらない美しさ」を削り出すだろう。

 社会も、人生も、法律も、企業のメソッドも、変わり続けるコトで変わらない何かを探す旅(発見するプロセス)にこそ価値がある。それは、何かと交換できる経済価値のようなものではなく、経験値として反脆い意識や存在を浮き彫りにする。

 まずは行ってしまえる力を持つ現代の企業同士が「体系的なメソッドの共創」という共通意識/共通目標を大前提として共有するコミュニティは「美徳」という反脆さを生み出す「集合天才型の組織」になり得る。

 そんな新たな「方法」を社会実装する集団を「法治企業」と呼びたいのだ。

 そして、それは「法治国家」と同じく人類にとっての「希望」であるべきだ。


7−5 
2つの “超” 現実


 企業は、「法」という「希望の平均化」によって生まれた「律(ルール)」を遵守し(法治国家の下で)新たな「方法」を開発してきた。

 現在、特に仮想現実市場における企業は、法治国家による「法律の整備」を待たず、先行者優位を競っている。その欲求を止めることが不可能であるなら、せめて、善意的な自主規制を伴った「方法(メソッド)」の共創」を行なっていくべきだ。

 本書では、そんな会社を「法治企業(ただし法は法律ではなく方法)」と呼ぶ。

 仮想空間を「何度でも巻き戻し可能な実践場」として実証実験に利用するためには「 “超” 現実的な未来世界」を構築する必要がある。それは、現在の現実には存在しない想像による創造(想造)のみが済んでいる事象だらけのセカイだ。

「 “超” 現実的 」という言葉は、相反する2つの状態を指す。


① リアリストな(現在現実でのフィジビリティが高い)
= 未来の現実にかなり近い形の「認識(実現イメージ)」を持っている

② 現実を超越した荒唐無稽な(実現するイメージが全く見えない)
= 未来の現実にかなり近い形の「認識(実現イメージ)」を持っていない


 ①/②両方を併せ持った「 “超” 現実的な未来の仮想現実 」を構築するコトにより、現在の現実の様々な不都合を解決する「実現イメージ」延いては「実行策」––––さらには、それらを活用する際の「リテラシー」延いては「美徳」を得られる可能性がある。

 企業が進める「方法」による「仮想現実における経済最優先の挑戦」と国家が阻む「法律」による「仮想空間における統治」の間にある「無法スペース」での攻防には、とっくにゴングが鳴らされ、企業が仮想上でビジネスを行い、国家がそれに追われる形で「法整備」を行なっているのが現状だ。

 ただし、その順序で生まれる「法」は「すでに起こった不都合に対するソリューション(後出しジャンケン)」でしかない。

※ この章を最初にまとめたのは2018年あたりのことで、当時、ARアプリの流行による「歩きスマホ」などの道路交通法違反が顕在化し、実際、交通事故に発展したケースなどを指摘しているが、本書のためにリライトしている2024年/現在、有名人のフェイク画像を悪用した偽広告におけるメタ社への訴えなどが、まさに企業と現行法の「間」= 今はまだ「無法」なスペースである仮想空間(SNS)で起こっている問題と言える。



新たな発想(冒涜)を社会に実装していくとき––––
不都合は、起こってからでないと解決できないのか?
犠牲は、絶対に、必要な、不可避の存在であるのか?

 たしかに、この世界はやってみないと分からないコトだらけだ。

 DCAPの重要性は前述した通り、間違いない。

 一方で、そういった挑戦に犠牲は付きものという驕りは、妥協であり、甘えであり、それこそ自分勝手な理想に憑かれた者の言い訳に過ぎないとも思う。平和を勝ち取るためには戦争が必要で、その戦争に勝つためには人体実験は必要だと言うような理論は、言うまでもなく負のスパイラルだ。

 人類に、仮想現実での心的なリアリティを持ち込む最大のメリットは、疑似体験を通じて、物理的な現実においては、誰も/何も傷付けるコトなく実践(実証実験)を行い、そこで得た知識やリテラシー/共創されたメソッドを、現在の現実に持ち帰れる点にある。

 自動車学校が分かりやすい。

 運転免許を取得する際、まずは自動車学校に通う––––疑似仮想街(物質で構築されたMR/VR空間)を走るコトで、リアルな街で交通事故を起こして誰かを傷付けるコトなく、運転技能を身に付けられるし、運転手がどうあるべきかの哲学も学べる。

 交通規則の本をいくら読んでも、そこまでの素養が身に付くコトはない。自動車学校の仮想街にある道路は、ディズニーランドと同じくコンクリートと土木建築で生まれたAR/MR装置だが、徐々にそれに没入し、VRとなる。

 最初からリアリティの乏しいVR(ゲームセンターにあってもおかしくないような運転シミュレーター)から始めてしまうと効果は薄い。だから、自動車教習所に関しては、IMMERSIVE SOCIETYの「1.5」ではなく「1.0」がベスト・ソリューションなのだ。

【 xRとIMMERSIVE SOCIETYについては第5〜6章に詳細 】

 ひよっこの運転手見習いは、リアルな物質を伴うシミュレーターでこそ、踏切で脱線したときの物理的な衝撃を味合ったり、かなり本物に近い焦りと対策を教わるコトができる。実際、何かにぶつかったりするコトもあるだろう––––

 でも、誰も傷付いたり、ましてや死んだりしない。

 このように、仮想現実内に「すでに起こった可逆的な未来」を生み出せれば、現在に先回りして「まだ実現していない未来の希望の平均化」を実践し、現実に戻ったときには、善意的なメソッドのみを還元してくれる(誰かを傷付けるようなコトを排除する)正のスパイラルを生むコトができる。

 今はまだ車を運転できなくとも、自動車学校という仮想空間内で、街の中で自動車を運転する未来の自分を、強制的に疑似体験するコトで、自分も他人も誰1人として傷付けるコトなく(偽物の)交通事故を起こし、そのたびに、まるで本当の事故を起こしたみたいに精神が落ち込み、次こそはと運転技能を磨いていけるのが人間だ。

 実際に交通事故を起こしてしまったら、取り返しの付かない物理的な傷と精神的な傷を負う。ガードレールに車をぶつけた際の傷は、心にこそ永遠に残る。物質的な傷跡は修復されても、精神的なトラウマが完全に消え去るコトはない。

 自動車学校での物損事故の対象はカラーコーンに過ぎず、実社会にあるガードレールや車体には傷一つ付かない。つまり、現実世界の安全性は一切、損なわれない。心にだけ、望まぬ形で物体に車体が擦れる嫌な感覚が残り続けるだけだ。

 それは「取り返しの付く物理的な傷」と「取り返しの付かない精神的な傷」を残す経験であり、それこそが、未来に先回りして、実現イメージを持つ初手––––DCAPな手法であり、「小さな多くの間違いを歓迎する」という反脆さに通ずるし、集合天才 = コレクティヴを促すアジャイル組織の本懐もこれと同様だ。

 免許を持たない素人が自動車学校で車を運転するコトは、“超” 現実的な(実現する可能性の高い)未来を模した仮想セカイの構築により、小さな理想を実現する。そういった仮想現実は、未来の現実性に従い抑制された「① “超” 現実的な未来の世界」であり、僕は、それを「予測仮想現実」と名付けた。

 一方で、太古の凡人が、遠い昔に、未来(現在)へ想いを馳せて描いた自由に空を飛び回るという空想は、人類にとって現実を遥かに “超” 越した荒唐無稽で遠大な目的のために利用されるべきだ。①とは真逆に位置し、ごくごく現実的な予測に従うべきでも、現行の常識に抑圧されるべきでもない。そちらには「② “超” 現実的な(実現性を無視した)未来の仮想世界」という意味を込めて「理想仮想現実」という名を付けた––––そんな青くさい世界で、「魔法」のように、まずは既成概念化を目指すコトこそ、まさに人類が「夢」と呼ぶ存在ではなかろうか。

 このように、2つの相反する “超” 現実的に未来を描く機能を備えてこそ、現在の仮想は未来の現実をより良く変えていけるのだ。

 世界的な、あるいは、個人的な、人類の発展における起点となるのは、いつの時代も、近く/遠く、小さく/大きな、2つの仮想現実に深く心的に没入するコトだと思う。

 目の前で起こっていく現実の積み重ね(本物の失敗の連続)こそが「理想」を築き上げるという考えもあるだろう––––ただし、その現実が常に理想の未来へと続く良い現在を選んでいくとは限らないのだ––––最悪の場合、その着実さの先に、現実社会が「絶望」を抱くような理想が生まれてしまう––––そして、それは、現在の現実が、物質的な(自然摂理や物理法則による)現状に縛られ過ぎているせいかも知れないのだ。

 灌漑/品種改良/化学肥料や農薬/機械化などは、環境破壊/神(自然)への冒涜など裏の顔も持つが、人類を食糧難から救ってくれた存在であるコトは確かだ。

 それらが生み出される以前、自然がどれだけ豊かでも、人口の田畑では不作や飢饉が続き、それに苦しむ農村部では、平然と、人身売買や弱者の遺棄が行われていた––––物質的な(自然摂理や物理法則による)現状に縛られた現在の現実の積み重ねで描いた「理想」が「子売り」や「姥捨て」なのだ。

 その時代、だったら、自ら村を捨て都会に出稼ぐコトも、学者になって化学を研究するコトも、政治で都市と山奥の富の均衡を図るコトも、夢のまた夢、荒唐無稽だったはずだ。でも、幻想の手をはるか遠いそこまで伸ばした素晴らしい愚か者ら––––そんなアウトサイダーがいたからこそ、農薬や農機などのソリューションは誕生した。

 そして、今なお、遺伝子組み換え/薬物依存的な栽培/森林伐採などのアウトサイドな正義が行われている。それは、冒涜だが、決して、絶対悪ではない––––言うなれば「偽悪」––––遠い未来に人類を救う可能性がないとは言い切れない(今は、思う存分否定できるだろうが、もし、破局噴火が起こって地球が急冷化し、収穫高が現状の半分になった瞬間––––長生きするための有機栽培を求める声よりも、明日を凌ぐために遺伝子組み換えの必要性を叫ぶ声が大きくだろう)。

 少なくとも、土を耕した経験すらない手でペンを持つ人の机上の空論で批評できるような浅薄な場所にない(人間らしい)業だ。

 人類を救うほどの理想は、平坦な日常にはない。
 山頂から烏滸がましく見晴るかす非日常にある。
 だから、最大限、注意を払うべきだ。

 人間は、自分たちに都合の良い理想を描く「最悪から良くて偽善の間」に生きる物なのだから。

 人間は、太古の昔から未来の理想を現在の仮想現実内に落とし込み、現在にいながら理想の未来を疑似体験するコトで、理想を実現するための実践的な思想や技術、そして、美徳など、具体的な方法を研ぎ、現在の現実が「実現イメージ」に向かって理想の未来へと進むディレクション(演出)を行なってきた。

 ときには「宗教」がそれを担い、ときには「革命」や「法律」がそれを担った。

 様々な記録やアートも大きな役割を果たしたはずだ––––だから、僕は、現代人の多くがそのモチベーションをエンタメに見出すコトが多いんじゃないかと、割と真剣に思っている––––現代のエンタメは、宗教に代わる思想を持ち、独特のルールで世界をナラティヴに変革し、アートという永遠の運動を「記録」するだけではなく、共に「記憶」していく「体験」だからだ。

 現在の現実に先行した空想が既成概念として登場する仮想現実において、人は、ヴェルヌの海底二万里に登場したノーチラス号のように「今はまだない実現イメージ」を自由に描くことができる。後世、その荒唐無稽な未来に現実が追い付いてくるような戦略を取れる。

 僕は、これを国家間(空間)のレーテンシーを利用した「タイムマシン戦略(先進国からすれば過去の成功を後進国に持ち込み、場所のスライドによって確度の高い成功を実現するメソッド)」に倣い、時間を超えて、仮想的未来と現在の現実の間に作用する「逆タイムマシン戦略」と呼びたい。

 過去を今に持ち込むのではなく、未来を今に持ち込むという意味で––––それに、タイムマシンって響き、みんな好きだし––––

 ––––未来に先回りして実現イメージを築き、リアリティを伴って疑似体験するコトで、今はまだない技術やシステム/そこで生じるマナーやリテラシーまで先行して磨き上げる「仮想現実を用いた逆タイムマシン戦略」は、法治国家にとって必須の「立法」だけでなく、資本主義をリードする企業が起点となる「新たな法治(方法の共創)」においても有用なメソッドだ。

 その代表格こそ「xR」で、法治企業的な善意や利他に満ちたアプローチが必要とされている。

 法律に代わって世界の新たな希望となる方法を生み出す––––インターネットを介した仮想空間は、非物質的で(良い意味で物理法則に縛られない)新しいゲマインシャフトなのだ。

 それは––––姿形を隠したまま心の美しさのみで愛し合うセカイ––––すべてが経済価値に置き換えられる必要のないセカイ––––選挙(多数決)やジャンケン(運)が最終手段ではないセカイかも知れない。世界平和を実現するための実現イメージも、現実世界ではない仮想空間の中から生まれるかも知れない––––国家間の戦争をなくすには、武装放棄や経済的援助といった物質的な対応のみでは不十分であると、歴史が証明している。

 日本国内から内紛がなくなった最大の理由は––––

 ––––国境という想像による創造の産物が消滅したからだ––––世界平和においても同じことが言える。

 戦争を無くす唯一の手段は、国境を無くすというシンプル。

 人類は、一致団結(国境消滅)するための言い訳として、地球外生命体からの侵略など「全人類共通の敵」を探しているように見える––––シンギュラリティへの浅慮は、それが「AI」であると吹聴している。

 一定の集団の外側にある脅威的な存在を「敵」と見做すのは、これまで、何度も、人類が犯してきた大罪––––やっとこさ多くの人類がまとまりつつある現代において、人類の外側にある人外(神/宇宙人/AI)を、人類共通の敵に据えて一致団結を呼びかけるのは、そんな負のスパイラルの延長に過ぎない。

 本当に目指すべきは、どこに線を引くかではなく、いかなる線も引かないコト––––線を引くコト自体が悪の根源と気付きべきだ。

 歴史に倣えば、大和と紀伊の間にあった国境は消え失せ、ただの奈良県と和歌山県として日本に内包されたように、いつか、必ず、日本は韓国とも北朝鮮ともその先にある中国やロシア、海を越えたアメリカとも一緒くたになって、国という概念は消え失せる。

 そうすれば、自動的に戦争は著しく減少するし、いつか無くなる。日本国内で、会津と長州がいまだに殺し合いを続けていないように。

 オリンピックは、平和の祭典なのか、国境という意識の強化(戦争の助長)なのか––––おそらく、どちらもなのだ。一堂に会する分には前者だが、それが国別の代理戦争であるなら(巨人を応援する大阪人くらいの軽やかさで北朝鮮を応援する日本人が生まれない限り)後者の影を持つイベントだ。

 和歌山県は、日本で唯一、飛び地の県領を持っている。北は奈良県/南は三重県と和歌山県でありながら和歌山県のどの市町村とも隣接しない北山村だ––––それを争って、和歌山県人と奈良県人と三重県人が争うコトなどあり得ない。それと竹島や劣閣諸島、北方領土の問題が、どう違うのか?––––色々と複雑で小難しく解説するのは簡単だが、本当に立ち向かうべきなのは、国あるいは国境なんて幻が機能し、そこに「金儲け」が絡むから、いざこざが生じているのだ。それ以上でもそれ以下でもない。

 すでに、インターネット(今らしい仮想現実)内では、国境だけでなく、資本主導社会における最重要ファクターである(国別の)紙幣や貨幣という概念さえも消滅しはじめている。そういった “超” 越した「民」主による新たな法治にこそ、世界平和のヒントが隠されている––––

 そして、民に入るのは、人だけでは、狭いし、古い。
 船は、地球1つで良く、その船頭は……

【 国も金も必要とされない新世界への第一歩は、以下を参照 】


本書のほとんどを書き上げた翌年、奇しくも、そんな全人類共通の強大な敵が現れてしまった。新型コロナウィルスと、それによって世界を覆った禍々しい空気だ。ここに記した黙示録の通り、インターネットを介した非物質的でボーダレスな共創を促す超民主主義を掲げた新たなゲマインシャフト(たとえば「あつまれ どうぶつの森」や「リモート会議の普及」など)が、大きな注目を集めた。もちろんこれらは素晴らしい進歩だが(この章にも書いた通り)必ず表裏一体となる負の双子も生まれたはずだ。超民主主義と似て非なる「ポピュリズム」や「自国ファースト」など、利己的な境界線の顕在化とそれを正当化するための行き過ぎた経済至上主義など……。真の敵は、いつの時代も、僕たち人間の心の中に宿る。そんな内なる悪魔の甘言に惑わされることなく、反脆い (悪いときこそ良くなる)レガシーが未来に残されることを願うばかりだ––––2020年5月某日

【 次 は 最 終 と な る 第 8 章 】

これまで記した「6つのキーワード」を用いて
僕なりの未来のセカイを「SFプロトタイピング」していきます


▶︎ 新 世 界 =「 I M M E R S I V E   S O C I E T Y   2 . 0 」 を
紐 解 く 6 つ の キ ー ワ ー ド

A N T I F R A G I L E

反 脆 弱 性 と い う 評 価 基 準

E M P O W E R M E N T

権 限 移 譲 か ら 起 こ る 超 民 主

I N C O R P O R E A L

非 物 質 的 が 解 く 呪 い

M A T E R I A L I Z E

素 材 化 に よ る 実 現

M U L T I L A Y E R E D

多 層 化 社 会 が 生 む パ ラ レ ル な 可 能 性

N A R R A T I V E

常 新 性 の 物 語 り : 誰 が 語 り 手 か ?



第8章 いつかこの世界はこの世界でなくなる.

8−1 永遠に完成しない未来のオブジェクト
8−2 ① 形と動きと声でつくるミカンの話
8−3 ② オーディエンスがいなくなった話
8−4 ③ 或る高校生と愉快なアバターたちの話
8−5 ④ 誰しもがサーファーになれる時代の話
8−6 ⑤ 空想上の地下にある反転都市での話
8−7 ⑥ 行動を定量化して循環させる社会の話(未完)
8−8 常新性の希望

企業がSF作家にオーダーメイドの近未来ストーリー(プロトタイピング)を依頼するというトレンドがある。量子力学だけでなく哲学が見直されている風潮も含め、数学的な理論だけでなく芸術的な妄想も重視されているのは確かだ。本書の大半を占めるのが、第8章の「未来を描いた⑥つの妄想ストーリー」で、5年ごとに進む25年間はすべて繋がっており、2025年〜2050年の未来予想図を描いている。②の「オーディエンスがいなくなる話」から⑥の「新しい循環社会の話」に関しては、今回「note」に公開するのは一部ダイジェスト版。

【 マ ガ ジ ン 】

(人間に限って)世界の半分以上は「想像による創造」で出来ている。

鳥は自由に国境を飛び越えていく
人がそう呼ばれる「幻」の「壁」を越えられないのは
物質的な高さではなく、精神的に没入する深さのせい

某レコード会社で音楽ディレクターとして働きながら、クリエティヴ・ディレクターとして、アート/広告/建築/人工知能/地域創生/ファッション/メタバースなど多種多様な業界と(運良く)仕事させてもらえたボクが、古くは『神話時代』から『ルネサンス』を経て『どこでもドアが普及した遠い未来』まで、史実とSF、考察と予測、観測と希望を交え、プロトタイピングしていく。

音楽業界を目指す人はもちろん、「DX」と「xR」の(良くも悪くもな)歴史(レファレンス)と未来(将来性)を知りたいあらゆる人向け。

 本当のタイトルは––––

「本当の商品には付録を読み終わるまではできれば触れないで欲しくって、
 付録の最後のページを先に読んで音楽を聴くのもできればやめて欲しい。
 また、この商品に収録されている音楽は誰のどの曲なのか非公開だから、
 音楽に関することをインターネット上で世界中に晒すなんてことは……」


【 自 己 紹 介 】

【 プ ロ ロ ー グ 】


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