【雑談】タモリさんと谷川俊太郎
本日は「雑談」と「谷川俊太郎評」です。
(一息入れたいと思って書いてみました)
【雑談】
先程過去の動画で聴いたラジオの話。
そのラジオは萩本欽一さんがホストでゲストのタモリさんに「無茶ぶり」をして、それをタモリさんが名人芸みたいな小噺にしていくという展開。萩本欽一さんが『「とっさ」の話をしてみてよ』と「無茶ぶり」。タモリさんが話し出す。
渋谷の昼時、まだ売れていないころのタモリさんが歩いていたら、道ゆく人に声を掛けている女性がいた。近づくと女性は案の定タモリさんにも声を掛けてきた。女性はいう『神様の話をしませんか?』と。タモリさんは「とっさ」に答える『わたしが神様です』と。
* * *
【谷川俊太郎】
数年前(コロナが始める時期でしょうか)に谷川俊太郎さんがTVドキュメンタリーにご出演になられていて、(その当時の)時代を『今は「意味偏重の時代」』と仰っていました。
もう心底唸ってしまった記憶があります。言葉にしたら「そう!」と、わかっていたけれど、それを表現する適格な言葉を持っているんですね。
因みに、彼が『意味偏重』と言ったのは、なんにでも意味やその訳を聞きたがり、その意味だけを聞いてわかった気になってるだけ、実際はどうであろうか、という感じ。
その当時「なぜ?」「それなに?」と追っかけ過ぎなわたしは大いに反省しました。あの時期に急に陰◎論が流行ったのは、時代の流れだったような気がいたします。
*
ところでですが、別にこんなことをわたしが申し上げても仕方がないのですが「皆さま、谷川俊太郎の才能を本当に理解しているのだろうか」とは思っております(ファンとしてですね)。
わたしだって彼の書籍をすべて網羅している訳ではないのですが、その言葉選びは、ほんとうに他の追随を寄せ付けません。表現した分野の多さも含め、その凄みは更に増します。
それはまず、その場に合った言葉を一寸の狂いもない「言葉」で表現できるということ(「主張が若干鼻につく」とか「微妙に意味が分かりにくい」とか「変な違和感」等々がないということ)。そして、その言葉が読者の本の前にいる状態に親密であり、それがその場に「もっとも相応しい言葉」であることを感じさせるということ。
それが例え「言葉遊び」のような表現であっても、そこには読者と言葉を密着させるような「親密さ」があり、魔法のような「相応しさ」が揺るぎない骨太な背骨で「言葉」を支えているようです。
なので彼の「言葉」は圧倒的な「安心感」と共に「普遍性」を持っているのだと思います。
更に、例えば「風」や「太陽」という「ことば」からイメージする景色や飛ばせるイメージの質や量を物凄く熟知しているということはいうまでもありません。
すべてを網羅するような谷川俊太郎評ではまったくないですし、わたしが個人的に感じる彼の凄みを短く表現するのならば、うまく言えているとはいえないですが、こういったニュアンスを頭に浮かべます。みなさんはどうでしょう?
「詩」という世界でここまで強靭な時代に流されない言葉を書き続けた彼は、完全に「ことば」の化け物です。それは更にこれから時代が証明していくのだと思います(わたしが言わなくたって、谷川俊太郎を読んでいる方はわかっているでしょうが)。
ということで、楽しみに読んでみます。
(因みに、わたしが一番好きな彼の絵本は「これはのみのぴこ」です)
追記:読み返してみると、まだまだ記述すべきことがでてきそうですね。コメントにも頂いた「新しく感じるような新鮮な言葉の選択」やマジックタッチのように突如現れる「落差のある言葉選び」などの力も突出していますね。