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8/31の夜に。
高校3年生の8/31の夜。ふと母に「明日、学校に行ける?」と聞かれた。
というのも、6月から始まった不登校。なにもかも無気力で、学校に通えない。トラブルらしいことは全くなく、自分でもなぜ通えないのかわからなかった。あんなに大好きで、必死に勉強して入った女子中高一貫校。自分でも、自分がなにを考えているのかまとまらなかった。
電車に乗って学校に着いたとしても廊下で疼くまるか、保健室にいるか。教室の自分の席で寝そべることもできなかった。周りの目が、受験生となったクラスメイトの目が痛かったからだ。
そして焦りと現状を打破したいと縋って自己判断で地元のメンタルクリニックに行き、「鬱」と診断された。
もう学校には通えない。その意識は両親も私も共通で、6月半ばから夏休みを挟んで長期欠席した。
長期欠席の最初、両親はきちんと薬を飲むように指導した。しかしいくら薬を飲んでも良くならない娘。
それどころか、日常生活が送れないほど動けなくなっている。
さすがにおかしいと思ったのだろう。
母が養護教諭に相談したところ、あまりにも薬が多すぎると言われた。
後々聞いたところによると、このクリニックはジェネリックを批判し、多剤療法をしていた。おそらく私みたいに動けなくなった人が居たのだろう、既に閉院している。
「明日から9月だね」
母が発したその言葉の意味は推し量らなくてもわかる。夏休みが終わって、再び学校に通えるか聞いているのだ。
その時なんと答えたか覚えていない。「うん」とか「多分」とか言って、すぐに部屋に引きこもったことは覚えているけれど。
頑張れば行ける、宿題も終わっているし。なによりも大学も推薦で受かっていたから。抜き打ちテストの準備もしてある。
大丈夫、大丈夫と唱えながら8/31の晩は過ごした。3ヶ月ぶりの学校。始業式とHRだけで終わる1日。うん、行ける。そう思って寝た。不安から目を背けて。
9/1の朝。私の高校は地元から少し遠くて、6:30に家を出なければならない。遅くても7:00。
薬で動けなくなった私は、鬱と診断された病院から転院した。なにも食べられなくて、ドリンクタイプの栄養剤が私のご飯だった。同じ味を同じ時間に食べる。本当になにも食べられなかったから。
そのドリンクを飲み、顔を洗う。制服を着て、髪型を整える。学校に行く時間を遅らせるために、入念に髪を整えた。家を出る時間が迫る度に、心臓がバクバクしてくる。もうすぐ家を出なければ。
その意思とは反対に、靴を履いた足が、鞄を持とうとした腕が、力を失くした。思わずしゃがみ込む。
母が慌てた様子でやって来て「どうする?」と聞かれた。頭の中はぐちゃぐちゃだった。行かないと、という気持ちと、もう無理だ、という気持ち。
自分が情けなくて、嫌いで、でもどうしようもなくて、泣きたくなった。
「ちょっと玄関で休む」と玄関に座り込む。
結局何分経っても、何時間経っても、私はそこから動けなかった。母は手慣れた様子で学校に欠席の連絡をし、私は自分の部屋のベッドに連れて行かれた。
不安と情けなさで涙なんて出なかった。
いっそのこと、消えたい。
高校すら行けないのに、大学なんて行けるの?
そもそも高校を卒業できるの?
単位が危ないって言われてるのに。
たくさんの感情が私を支配し、責め立てた。
その時。
「お母さんー!もうそろそろ行く!!」
姉だった。
2つ上の姉は、大学のライフセービング部に所属し、選手のサポートをする役割をしていた。
今までは生徒会とか、茶道部に所属していた姉。
ちょうど良く日焼けした肌は、とても健康的だった。
あんなにも泳げなかった姉。授業やバイトの合間を縫って地元のスポーツクラブで泳ぐことをマスターしたらしい。しかも1人で。
私は泳げないから、今は余計に劣等感が激しかった。
「どこに行くの?」
と母に聞いてみる。母いわく、選手たちが活動する海まで、姉の運転で行ってみるらしい。来年は姉が運転するんだって、ペーパードライバーだから心配なのよ、と話す母は私に向けられたことのない顔をしていた。
「私も行く」
ふと出た言葉だった。学校に行かないのに海に?自分でも真意がわからなかった。
怒ったのはもちろん姉。
「学校に今から行きな!」
「道中長いんだからね!」
など様々なことを言われたが、私は頑なに「行く」と言い続けた。今部屋にいるよりも、海に行くべきだと直感で思ったのだ。
結局「好きにしな!」と怒りながら運転席に乗る姉の後を追い、後ろの座席に乗った。
ペーパードライバーと自称するだけあって、姉の運転はジェットコースターのようだった。
「高速ここで降りるの!?」
「今のところ左!?」
そんな姉を母は落ち着かせるように「大丈夫、大丈夫」と言い続けていた。それはまるで、私にも言われているように。
その声が子守唄のようで、いつの間にか私は眠りに落ちた。
「着いたー!」
姉は一仕事を終えたとばかりに、他のライフセーバーの元へ駆け寄っていく。
その様子を見ながら私はスカートを折り、少し短くしながら「この体験は一生忘れないだろうな」と思っていた。なんとなく、そんな気がした。
日焼け止めなんて塗っていない脚や腕が、日差しでジリジリと焼いていく。
それでもスカートから伸びた脚は食べていない人特有の細さと、3ヶ月の引きこもりによった、病的な白さをしていた。
海風が制服と髪をなびいていく。いつもの風よりも、塩気があってベタつくのを感じる。
そういえば、母はこの辺りで育ったと話していたっけ。
母はずっと黙っていた。ずっとずっと、黙っていてくれた。
言いたいことはたくさんあっただろう。
なぜ学校に行かないのか。トラブルはあるのか。なぜ相談もせず、メンタルクリニックに行ったのか、卒業の単位のこと……
黙っていてくれたから言えた。
「私、明日から学校に行くね」
母は「そう」と海を見ながら言った。他に言葉は要らなかった。
行きの運転で疲れたらしい姉に変わって、帰りは母が運転してくれた。
親族で初めてのライフセービングに関わる姉。大学生活のこと。話したいことがたくさんあるようで、ずっと母と話していた。
私はぼんやりと窓の外を見ながら、校則で違反とされているブレスレットを弄んでいた。
このブレスレットは、母がお守りとしてプレゼントしてくれたものだ。何度先生に注意されていても、外すことはなかった。弱気になった時に、母の愛を感じたかったから。
翌朝。
やっぱりぎりぎりまで家を出られなかった。3ヶ月ぶりの学校。少し、いやだいぶ怖かった。いじめられているわけではないのに。ただ環境が私に合わなかっただけなのだ。
「辛くなったら迎えに行くからね」母のその言葉に、頑張ろうと思えた。高校から我が家まで車で片道約2時間。6月に倒れるまで、2週間に1度迎えに来てもらっていた。その負担をもうかけたくないと思った。
「ありがとう、いってきます」
玄関のドアを開ける。9月なのに、まだまだ暑い。
未熟で、臆病で、弱気。それでも、自分を変えたいと思った。
久しぶりに乗る電車はやっぱり混んでいて、苦しくて1回下車した。
学校の最寄り駅からの道は、やっぱり不安だった。
約3ヶ月ぶりのクラス。みんなは避けるだろうか。
早めに着いた下駄箱の前で帰ることも考えた。
その時、ふと思った。
ここで逃げたら、私は一生変わらない。
よし、と気合いを入れてクラスに入る。
席に座ると、案外みんな普通だった。模試大変だよね、とかダンスの授業高3から始めるの意味わからん、とかそういうの。
ほっとした。みんな私のことなんとも思っていないんだって。変に気を使われるより自然体の方がいい。
あんなに不安に感じていたクラスメイトと話してみようと思った。
「あ、落合さんだ」
中学の部活から、高1〜高3のクラス、そして高校の部活で一緒だったクラスメイトの1人が話しかけてくる。
「昨日休んでたから、来ないかと思ったよ」
昨日はちょっと体調が悪くて、と話そうとするも上手く話せない。なぜなら3ヶ月間家族以外と話していないから。
それでも話してくれた。その事実が嬉しくてたまらなく嬉しかった。LINE返さなくてごめんね、から始まり少し話せた。
もし小説なら彼女が「おかえり」とか言うのだろう。でも彼女は言わなかった。私が居なかった3ヶ月を普通に過ごして、私が戻って来たら受け入れてくれた。現実は普通の連続だ。
私が居ても、居なくても、日常は続いていく。
その当たり前に気がつけた時、少しだけ大人になれた気がした。