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遅ればせながら『PERFECT DAYS』

又吉さんのYouTubeに触発されて、遅ればせながら『PERFECT DAYS』を観てきた。

この映画における“PERFECT DAYS” という言葉の意味には、カセットテープみたいにA面とB面とがあったように思う。


【A面;完成されたルーチンを寸分たがわずなぞる “PERFECT DAYS”】

主人公であるヒラヤマさんの日々は、「完璧な一日」のくりかえしでできている。さながらオートリバースのよう。

ゆえに昨日と今日の差分が、まちがってRECボタンおしちゃったときなみの衝撃をもってオートリバースの調和を破り、おのず生じる違和を契機としてヒラヤマさんの周辺にドラマの気配が漂いはじめる。

後半、この違和がぽつりぽつりと回収され、それまで霞がかっていたドラマらしきものが、輪郭をもった物語として着地する。この展開が、いかにも劇場映画らしくて、ほんとうに清々しい。

それだけでなく、ヒラヤマさんの “PERFECT DAYS” 自体が大きな違和をはらんでいたりするところがまたオモシロイ。

「城東の昭和のオンボロ木造アパート住み、3K労働に従事する単身独居の高年オジサン」のステレオタイプとは一線を画する暮らしぶりの違和。

毎朝歯を磨き、鼻髭を切りそろえるという整容習慣に見る違和(育ちが良いのだろうなあ、とか)。
※城東のボロアパートに生息するオジサン界隈は、野生の出なので歯磨きしないし髭の手入れはライターで燃す方式、というのはわたしの完全なる偏見です、ごめんなさい

好む音楽や小説はカウンターカルチャー寄りで、物語的に嗜好がハイカルチャーではないのは当然としても、メインカルチャーでもないという違和。

銭湯で入浴したあと、わざわざはるばる隅田川を渡り、銀座線の改札が見える酒場で夕食をとることの違和(誰かの帰りを待ってるのかなあとか、行きたいけれど行けない場所が銀座線の先にあるのかなあ、とか)。

眠りに落ちるときだけ色のない、1日の走馬灯のような映像の違和(眠りに落ちるとき、忍び寄る老いにありありと死を想う、とか)。

ほかにもね、たあくさん。神主さん顔パスの境内の楓の収集と育成への固執、一人で住むには少しばかり広い部屋、目に触れにくいところに押しこめて捨てずに残してある家財道具、出勤前に小銭を掴んだあといつも取り残される指輪らしきもの、などなど。

入れ子のように幾重にも織りこまれる「違和」が、ヒラヤマさんという架空の人物に血色と歳月をもたらし、人生に物語を吹きこんでいる(そういえば昔々、カセットテープに録音することを「ふきこむ」と言ってたな)

こうした「違和」のほとんどが、答えあわせされないまま幕を閉じる。とはいえいずれも言葉以上に多くを語りかけてくれていたし、答えが明示されないからこそ、こんなにも深く胸に余韻が刻まれたのだと思う。映画的な装置としての「違和」の扱いに、いちいち膝を打ってしまう気持ちのよい作品だった。


【B面;ほかでもない、ヒラヤマさんの愛しき日々。ヒラヤマさんのヒラヤマさんによるヒラヤマさんのための “PERFECT DAYS”】

存分に仕事(役割)に取り組み、好きなものに囲まれて、持ち時間を自由に過ごす。目覚めたときから眠りに落ちるまで、全てに満足のいく生活。

押し流されるように辿り着いたのか、願って造りあげたのか、もしかしたら逃走だったのかもしれない、“PERFECTじゃないDAYS”からの脱却。そのすえに築きあげた「申し分のない一日」。

片道切符を手にして山を越え谷を越え、たくさんの人やものに見送られ、あるいは見送り、目をつむり、手に取って、数えきれないほどの「今」を連ねて至る今日。

ずっと同じままなんてこと、あるわけないんだ。

ふりかえって来し方を見はるかし、「ずいぶんと遠くに来たもんだなあ」とつぶやいて、幸福感と達成感とノスタルジーと、すこしの寂しさが綯い交ぜになった、複雑な感情が去来して涙が溢れる。

わかる。わかるよ、ヒラヤマさん。わたしのばあい、首都高を車でひとり駆けてるときに決まってそれがくる。エンディングに至って、あ、これ「わたし」の物語だったんだと、そう思う。そうかあ、わたしは “PERFECT DAYS” を手にするために生きてるのだなあ。

ずっと同じままなんてこと、あるわけないんだ。

オートリバースな毎日なんてない。昨日と今日の差分、その木漏れ日のような違和を感知することが、愛しき人生を形づくるのかもしれない。忘れないように、何度でも観かえせるように、『PERFECT DAYS』、部屋の棚におさめておこう。

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