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石原莞爾と板垣征四郎 東洋のアメリカの夢

今回は、日本より満州の繁栄を第一に考え、満州事変を起こした中心人物、石原莞爾と板垣征四郎について紹介する。(※投稿が遅れてしまってすいません!)


1.満州事変前の石原莞爾と板垣征四郎

石原莞爾

山形県鶴岡市で生まれる。
明治43年、陸軍士官学校(21期)を卒業し、歩兵として配属される。
ちなみに同期には以前紹介した樋口季一郎などがいる。
その後は連隊長命令で陸軍大学校を受験、見事合格し大正4年入校した。
卒業後は在外武官としてドイツに留学した。
帰国後、関東軍参謀として満州に赴任する。
昭和6年、板垣征四郎らと結託し満州事変を起こす。

板垣征四郎

岩手県岩手郡に生まれる。
祖父は盛岡藩の士族で新政府軍に抵抗したことがある。
出身校の盛岡中学は3級上に米内光政、1級上に及川古志郎、一級下に石川啄木と著名人が多くいる。
1904年、陸軍士官学校(16期)を卒業する。
同期には「満州のロレンス」と言われた土肥原賢二や統制派の永田鉄山などがいた。昭和4年、関東軍参謀に就任。
昭和6年、石原莞爾らと結託し満州事変を起こす。

2.満州事変

「満州事変は石原莞爾と板垣征四郎が結託し、自作自演で満州に侵攻し起こした事件。これはその後の支那事変や大東亜戦争にも繋がった」と言われがちである。これだけを見ると石原莞爾=悪となってしまうが、間違いである。
石原莞爾と板垣征四郎は日本のためだけに満州事変を起こしたのではなく、満州のことも考えて起こしたのである。
「王道楽土」、「五族共和」をスローガンとし本気で中国や日本からも独立した「東洋のアメリカ」を作ろうとしていたのだ。
しかしその夢は叶うことはなかった。なぜか。満州事変を起こした責任を問われ、石原莞爾やその他の関東軍(板垣征四郎を除く)が左遷されてしまったのだ。
残された満州は新しく着任した関東軍によって日本のいいように操れる、いわば日本の傀儡国家となってしまったのである。

3.その後の板垣征四郎と石原莞爾

さて、今まで満州事変前の石原莞爾と板垣征四郎を解説した。ここからは満州事変後の二人を解説していく。ここから二人は違った運命を辿ることになるのだ。

石原莞爾

満州事変の責任を問われて関東軍から左遷された後、もう一度関東軍に戻り参謀副長に就任する。当時参謀総長であった東條英機と戦略的思想の相違から
対立することになる。石原は東條のことを「東條上等兵」や「憲兵隊しか使えない女々しいやつ」などと徹底的に馬鹿呼ばわりし、二人の対立はより一層深まることになる。病気を理由に関東軍参謀副長を辞任し、内地(日本)に戻る。
その後は執筆活動に勤しみ「世界最終戦論」などを執筆した。
大東亜戦争には断固反対であり、それを計画した東條英機の暗殺計画にも同意をしていた。
終戦後、石原は逮捕されるかと思われたがされず代わりに証人として出廷を命じられた。しかし、石原は拒否しわざわざ石原のいる酒井まで出張法廷を開かせた(どれだけ石原の証言が重要だったかがわかる)。
石原は連合国軍の誘導には乗らず、自分の信念を突き通す発言をした。
ちなみにこの時の裁判記録は全て削除されている。
その後持病が悪化し、昭和23年病死。
享年60。

板垣征四郎

板垣征四郎は満州事変後、奉天特務機関長に任命される。
関東軍主導で満州国を建国する。
板垣征四郎自身は関東軍にいたのだが、それ以外の関東軍の入れ替わりもあり、関東軍を牛耳ることはできなかった。
その後は土肥原賢二とともに華北分離工作を進めた。
そして第一次近衛改造内閣で陸軍大臣に就任。
日中和平派と見なされていた板垣を牽制するために統制派の東條英機を次官に据えた。しかし板垣は和平派から強硬派に傾き、宇垣一成外相の提案した和平案に反対した。陸相辞任後の昭和16年、大将に昇進。
朝鮮方面司令官に任命される。「内鮮一体」の植民地政策を推し進めた。
寺内寿一に代わって第七方面軍司令官になった後シンガポールで終戦を迎える。
その後、A級戦犯に指定され、極東国際軍事裁判(東京裁判)にかけられる。
判決は絞首刑。1948年、巣鴨プリズンにて刑死。
享年63。

4.まとめ

どうだろうか。石原莞爾と板垣征四郎が結託し、満州事変を起こしたというのは広く知られているが、それ以前とそれ以後はあまり知られていない。
これを機にこの二人と満州事変について知ってくれると大変うれしい。
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