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鳩山一郎 戦前の大戦犯か、戦後の発展の立役者か

今回は立憲政友会や民主党を率いた政治家、鳩山一郎について解説する。
(投稿が遅れてすみません!)



1.概要

1883年、東京で生まれる。
1912年には東京市会議員に当選
立憲政友会に入党し、田中義一内閣では内閣書記官長に就任する。
その後の犬養毅内閣では文部大臣に就任した。
5・15事件で犬養毅が暗殺された後も斎藤実内閣まで留任した。
(文部大臣在任中に滝川事件に関与している)
軍政の東條内閣を批判し、軽井沢に隠遁する。
終戦後は日本自由党(旧立憲政友会)の党首となり、第1党となったのだが首相就任直前に連合国から公職追放を受ける。
脳出血を患ったが回復し、追放解除の後に日本民主党を結党し
1954年に内閣総理大臣に就任する。
内閣総理大臣在任中は国連加盟や日ソ国交回復を成し遂げた。
1959年、病死。

2.戦前(立憲政友会)

戦前の鳩山一郎について、私には評価すべきところが見つからなかった。
例えば統帥権干犯問題、ロンドン海軍軍縮会議の時である。
この時、時の首相濱口雄幸は内閣を中心に軍縮条約を結ぼうとしていた。
これを当時野党であった鳩山一郎や犬養毅は軍のことに内閣が関与するのは統帥権干犯であると批判したのだ。これを軍部は利用した。後に軍のことに内閣が関与しようとすると、全て統帥権干犯、統帥権干犯と言ってしまう。だから私はこの出来事が大東亜戦争にも繋がったと考えている。
ただ倒閣を行いたかっただけなのかもしれないが、彼らが行ったことは計り知れないことであった。
鳩山はまだ過ちを犯している。若槻内閣の末期に軍部の統制派、永田鉄山や今村均、東條英機らに倒閣を持ちかけたのだ。これは議会人としてあるまじき行為である。戦後、GHQに公職追放されるのは当然である。

3.戦後(民主党)

戦後、鳩山は自由党の党首になった。
だが、首相になる寸前に公職追放となり吉田茂にその座を渡したのだ。
追放解除解除後、再び党首になろうとしたが吉田茂に断られ出来なかった。
その後鳩山は民主党を結党し第1党となり、念願の総理大臣となった。
外務大臣兼副総理には重光葵が就任した。
(重光葵についてはここで紹介している。)

その後、鳩山は懸命な努力の末、日ソ国交回復や国際連合加盟などを成し遂げた。

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