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起業はツラいよ日記 #34

この本を三鷹の古書店で購入した。

「食べること」について考えていると、スーパーやコンビニに並ぶ肉製品はどこから来たのかと必然的に考えることになる。自然な流れで屠殺・屠畜についても辿り着くだろう。そうすると、屠畜に携わった人たちが被ってきた理不尽な差別にも向き合わねばならない。

冒頭に紹介した書籍の第1章に以下のようにあるので引用したい。

「部落」ということばは、「集落」「村落」「村」などと同義語で使う限り、差別的な意味合いはない。問題は「被差別部落」の「被差別」を省略して「部落」とい表記する場合だろう。仮にその場合の「部落」に賤称的なニュアンスが含まれていないならば、省略形で表記する理由はない。

『差別表現の検証 マスメディアの現場から』西尾秀和著、2001年

わたしの祖母はよく「部落」という表現を使っていた。わたしの祖母に限らず、ご近所のおじいちゃん・おばあちゃんたちもその表現を使っていた。高校生の頃だったか、中学生だったか忘れてしまったが、歴史の授業で「被差別部落」という言葉を聞いたとき、一瞬ゾッとしたことがある(しかし今思えばこのゾッとすること自体が差別的だというのは当時は何も気づきもしなかった)なぜゾッとしたかというと、もしかしたら自分が住む集落は差別される対象なのかと不安に思ってしまったのだ。

そして最低なことに、自分が住む地域はそうではないと知ると、そのことに安心してしまった。

しかしながら、この一連の記憶に日本の差別意識や差別感情が大昔からなかなかアップデートされない原因というのがある気がしている。西尾氏の著作から引用したように単に「部落」と表現するのは何ら問題ない。しかし、「部落」という表現を過度に嫌悪しテレビや新聞雑誌など、あらゆるメディアから取り除いてきてしまった結果がわたしの誤った理解を生んだと言える。この認識は、義務教育以降、どこかで訂正されるのだろうか。

同書が指摘するように「なぜいけないのか」を考えなければ本来の意図から奇形的に変化していってしまうことだろう。

どういう表現が、なぜいけないのかを深く考えようとせずーーつまり、あることばや表現を使う場合に、その必然性や正当性、論理をあまり考えないまま、ただやみくもに”ヤバそうな表現はかえる"という安易な発想で「言いかえ」をしている現状がある。

同上

差別というのは未だに無くならないし、むしろその適用される範囲は年々拡大傾向にある。問題のある表現も、何が問題かを考えることなく安易に視界から消し去ってしまうようであれば、次世代はその過程を知ることなくそれを所与のものとして受け取ってしまうことだろう。現役世代であるわたしたちの責任として取り組んでいいく必要があることだろう。

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